大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 昭和51年(ワ)1620号 判決 1981年10月29日

原告 平田香織

<ほか三名>

右四名訴訟代理人弁護士 村林隆一

右同 今中利昭

右同 宇多民夫

右四名訴訟復代理人弁護士 吉村洋

右同 深井潔

右同 千田適

被告 学校法人関西医科大学

右代表者理事長 岡宗夫

右訴訟代理人弁護士 佐藤雪得

右同 米田泰邦

右同 前川信夫

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告平田香織(以下「原告香織」という。)に対し三三〇〇万円、同平田博史(以下「原告博史」という。)、同平田豊實(以下「原告豊實」という。)、同平田末子(以下「原告末子」という。)に対し各五五〇万円ならびにこれらに対する昭和五一年五月二〇日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。

第二当事者の主張

(請求原因)

一  当事者

原告豊實は原告香織の父、原告末子は原告香織の母、原告博史は原告香織の兄である。

被告は、関西医科大学付属香里病院(以下「被告病院」という。)を併設経営する学校法人であり、訴外伊吹良恵(以下「伊吹医師」という。)、同野呂幸枝(以下「野呂医師」という。)、同斎藤紀美子(以下「斎藤医師」という。)は、いずれも被告病院の勤務医師であった。

二  当事者間の診療契約

原告香織は、昭和四八年六月一五日午前九時頃、被告病院において、妊娠八か月後半、生下時体重一〇〇〇グラムの未熟児として出生したが、この際、被告と原告らとの間において、被告は原告香織を同原告が普通出産児と同様に家庭において哺育可能になるまで発育を促進し、生命ならびに身体諸器官の機能を十全ならしめることを内容とする診療契約(以下、内容はともかくとして、この時締結された診療契約を「本件契約」という。)を締結した。

なお、本件契約において、原告らのうち、被告との間で外形上契約締結の意思表示をなしたのは、原告豊實のみであるが、診療契約においては、生計を一つにする親族(以下「家族」という。)にあっては、その構成員一人の生死、身体障害の有無は、家族全体の利害にかかわるゆえ、各構成員は、他の構成員の具体的な授権がなくても、家族全員を代表して診療契約締結の意思表示をなすことができ、その効果は各家族構成員に及ぶものと解すべきであるから、原告豊實の右意思表示によって、原告ら四名が本件契約の当事者となるものである。

三  原告香織の失明

原告香織は、昭和四八年六月一五日午前九時頃出生したのち同日午後二時頃、被告病院内の未熟児センターに移され、伊吹医師担当の下に保育器に収容され、同年七月二六日までの四二日間酸素供給を受け、同年九月一二日まで保育器内で看護を受けたのち、同年一〇月三〇日退院したが、この間未熟児網膜症(以下「本症」という。)に罹患し、両眼を失明するに至った。

四  本症について

1 本症の原因

本症については、昭和一七年アメリカのテリーが、これを水晶体後方線繊増殖症と命名して以来、多くの学者によって臨床的、実験的研究が行なわれてきたが、昭和二六年オーストラリアのキャンベルがその原因として、哺育時におこる酸素過剰投与説を唱え、さらにキンゼイらの統計的研究の結果、この説が確認され、酸素の使用が厳しく制限された結果本症の発生は劇的に減少し、酸素が原因であることが明らかになった。わが国でも、眼科、小児科界等において、昭和二四年頃から、本症に関し、諸外国の経験、研究成果の紹介や、臨床研究が数多く発表され、昭和三九年以降は、国立小児科病院眼科植村恭夫らの積極的な研究発表、啓蒙活動により、本症の発症原因が未熟児に投与された過剰な酸素によることは、既に十分証明されており、現在では動かしがたい事実となっている。

2 本症の予防および治療

(1) 本症の発症原因は未熟児に対する酸素の過剰投与であるから、未熟児に対する酸素投与は、濃度、量、時間のいずれも必要最少限度にとどめ、チアノーゼが起こった場合でも安易に投与してはならない。

(2) 本症の早期発見、早期治療のため、未熟児の定期的眼底検査を頻回かつ精密に行なう。

(3) 本症の徴候を発見した場合には、症状に応じて副腎皮質ホルモン剤を投与する。

(4) 薬物療法で回復を得られない場合には、本症が進行し網膜剥離を起こす前(オーエンスⅢ期が適期といわれている。)に網膜周辺部に光凝固治療を実施する。

五  被告および担当医師の注意義務違反

1 医療担当者の一般的注意義務

医療機関・医師は、人の生命および健康を管理するという重大な業務に従事するものであるから、その業務の性質に照らし、起こりうる危険を未然に防止するため、当時の医療水準にもとづき、実験上必要とされる高度の注意義務を要求される。

2 本件未熟児哺育における被告および担当医師の具体的注意義務および注意義務違反

被告および担当医師である伊吹医師、野呂医師、斎藤医師は、原告香織の哺育を行うにあたり、次の注意義務を遵守すべきにもかかわらず、これを懈怠し、よって同原告を失明するに至らしめたものである。

(一) 酸素管理義務について

(1) 注意義務

本症は未熟な網膜血管という素因に酸素が引金になって発症するものであるが、適切な酸素管理がなされれば、発症を防止でき、あるいは自然寛解を促し得るのであるから、被告および担当医師には原告香織に対する酸素供給を厳重に管理する注意義務があり、その具体的内容は次のとおりである。

第一に、酸素投与(酸素療法)は、医学的な適応のある場合に限って行なわれるべきである。酸素療法が必要となる疾患は、呼吸障害症候群、反復性無呼吸のある一部の症例、肺炎、重症の貧血およびショック、心不全などで、加えて低酸素血症が存在する場合に限って酸素投与が適応となり、この際血中酸素分圧(以下「PaO2」という。)測定が前提とされる。未熟児であること、チアノーゼがあること、顔色が悪いこと、呼吸が速く不安定であること等の症状に頼って酸素投与を行なってはならない。また、酸素投与が最も適応であるとされる呼吸障害症候群に対して、昭和三六年にR・アッシャーがアルカリ剤による輸液療法を発表し、以後この療法がわが国にも移入され劇的な好結果を収めた例が多数報告されているから、担当医師は、まずこの療法を採用するべきであり、安易に酸素投与をしてはならない。

第二に、酸素投与にあたっては、酸素流量計に加えて酸素濃度計で保育器内の酸素濃度を頻回にチェックしなければならない。すなわち、保育器内の酸素濃度は、同じ酸素流量を流しても、各保育器ごとに、また同一の保育器であっても時によって濃度を異にするものであるから、流量による調節は信頼性が低い。そして、酸素濃度は、四〇パーセントにとどめていれば絶対安全であるわけでなく、一日のうち数回は酸素投与を中止してチアノーゼの発現を見る等のチェックをして、できるだけ濃度を上げず、かつ短期間投与にとどめるべきである。

第三に、酸素投与にあたって、担当医師はできる限り頻回に眼底検査を実施し、酸素管理に努めるべきである。本症は、初期に発見し適切な対応策をとれば、重大な段階に至る前にその進行をくい止め、自然寛解に導くことができる。したがって、必要やむを得ず未熟児に酸素投与する場合には、担当医師は頻回に眼底検査を実施して本症の早期発見に努め、発見した場合適切な措置をとるべきである。

第四に、酸素投与にあたっては、PaO2値を繰り返し測定して酸素管理するべきである。低酸素血症の存在はPaO2値によって示されるから、PaO2値を測定することによってはじめて適正な酸素療法が可能となり、高酸素血症を原因とする本症予防のためにもPaO2値の測定は不可欠である。そして、本件当時血液ガス分析によるPaO2値測定は既に一般化して、大学付属病院だけでなく一般病院にも普及しており、PaO2値を繰り返し測定しつつ酸素投与を行なうべきことは医学上の常識的事項であった。

(2) 注意義務違反

伊吹医師、野呂医師は、原告香織が被告病院未熟児センターに入院した昭和四八年六月一五日から同年七月二六日までの四二日間、濃度、流量に変化はあるものの一時の休止もなく酸素投与を続けた。

入院時、原告香織のチアノーゼは口鼻周囲、四肢末端にとどまるものであったが、伊吹医師はチアノーゼ消失を目的として酸素投与を開始した。しかし、原告香織のカルテには同年六月一八日まで、看護日誌には同年七月一日までしかチアノーゼの記載がないにもかかわらず、それ以降も酸素投与がなされ、また、カルテ、看護日誌によれば、呼吸状態について酸素投与中と中止後とでは著しい変化がみられない。右両医師は、原告香織に対し酸素療法が必要であるかを慎重に考慮することなく、同原告が未熟児で当初チアノーゼ、呼吸不安定が見られたことから機械的に不必要な酸素投与を行なったものである。

右両医師は、本症発症の予防のため、PaO2値測定が不可欠であることを認識しながら、酸素管理について、保育器内の酸素濃度を四〇パーセント以下に保ったのみで、PaO2値測定は、出生当日、二日目、四日目の三回実施しただけで、以後チアノーゼ、呼吸不規則、多呼吸、低体温等の酸素不足の間接的徴候があることを理由に三八日間酸素投与を続け、この間PaO2値を測定しなかった。

斎藤医師は、同年七月三日(生後一九日目)から同原告の眼底検査を開始したが、伊吹医師が斎藤医師に対し検査開始日を同日まで遅延させて指示するにつき合理的理由はなかった。また斎藤医師は眼底検査の結果を通知用紙にごく簡単に記入して伊吹医師に連絡するのみで、何ら酸素療法に対する指示をすることはなく、伊吹医師も「未熟眼底」(同月三日、一〇日)「オーエンスⅠ期」(同月一七日)という通知があっても酸素投与量を変更させることはなく、眼底検査は酸素投与に関しては何の役割も果していなかった。

(二) 低体温改善義務について

(1) 注意義務

未熟児が低体温である場合、担当医師は、低体温の改善のため、クベース内の温度管理、フード反射板の使用、未熟児収容室自体の室温を上げる、児の観察不要部分をくるむ、湯たんぽの使用、保育器ケース自体を温める等の手段を施すべきである。

(2) 注意義務違反

伊吹医師、野呂医師は、原告香織の低体温改善のため、フード反射板を使用したのみであり、伊吹医師は酸素を与えれば体温が上がるとして、不必要な酸素投与を続けた。

(三) 全身管理義務について

(1) 注意義務

未熟児の哺育を依頼された病院は、単にその生命を維持するだけでなく、心身共に普通新生児と同様な健康児に成長させるべく、産科、小児科、眼科等の連絡を密にし、未熟児を全身的に管理し総合的に哺育をする義務がある。殊に、被告病院のような大学付属病院で未熟児センターを設けているところでは、産科医、小児科医、眼科医等が一体となった協力体制の下に哺育されるべきである。

(2) 注意義務違反

被告病院においては、本症発症防止のための産科、小児科、眼科の協力体制が全く杜撰であった。

原告香織は、被告病院において、未熟児センターと同一階にある産科で出生したにもかかわらず、未熟児センター収容まで五時間を要している。また眼科の斎藤医師から小児科への眼底検査の報告は、通知用紙によってなされるのみで、その内容は主として次回期日を知らせる以上の記載はなく、症状の記載については数語の言葉や極めて粗雑な略図のみであって、到底協力体制の一環としてなされる情報伝達の用を達するものではなかった。そのため、本症の発症が発見されても、酸素管理に関する適切な措置はとられず、適期に光凝固を実施することができなかった。

(四) 定期的眼底検査義務について

(1) 注意義務

担当医師は、本症の早期発見、早期治療のために、生後一週目位から週一回数か月にわたって定期的眼底検査を行なわなければならない。定期的眼底検査の必要性は、早くから唱えられてきており、臨床眼科学会では、昭和四〇年頃から植村恭夫、永田誠、塚原勇らがそれぞれ本症の早期発見、早期治療のため定期的眼底検査を行なう必要性を強調する講演をしていた。また、眼底検査は漫然と週一回行なえばよいというものではなく、本症の発症可能性のある時期、進行時期には、回数を多くし、毎日あるいは一日に数回の検査を行なわなければならない。

(2) 注意義務違反

斎藤医師の記載作成した原告香織の眼科カルテ・通知用紙によれば、眼底検査の経過は次のとおりであった。

昭和四八年七月一七日、原告香織が本症に罹患(オーエンスⅠ期)したことを発見した。

同月三一日、眼底は、血管の怒張・蛇行はもとより、網膜に若干の浮腫が認められ、本症増悪の傾向が認められた。

同年八月七日、右眼は硝子体混濁により不詳、左眼は血管の怒張・蛇行が認められた。

同月九日、右眼はやはり不詳、左眼は出血のために硝子体混濁した。

同月一〇日、一四日と同様の状態が続いた。

同月二一日、左眼の出血が吸収され、透見可能となったが、網膜の状態について何ら記載されていない。

同月二三日、瘢痕の病変がある程度見られる。

斎藤医師は、原告香織が右眼硝子体混濁、左眼出血と状態悪化の傾向を示しているのに、同年八月一四日から同月二一日までの間、眼底検査をせずに放置した。右期間内に、光凝固の適期であるオーエンスⅢ期を通過してしまい、光凝固の時期を逸した可能性が強く、斎藤医師の眼底検査の懈怠は重大な注意義務違反である。

(五) 光凝固あるいは冷凍凝固法施術義務(転医義務)について

(1) 注意義務

担当医師は、本症が発症した場合には、失明を防ぐため光凝固、冷凍凝固設備のある病院、本症に右治療法を実施している医師を、未熟児の両親に説明したうえ、当該病院に転医させ、右治療を受けさせるべきである。

治療の機会を奪うことは医師として絶対に許されないばかりか、保険医医療機関および保険医医療養担当規則一六条には転医義務が規定されている。また、本件当時、被告は被告病院の近くに滝井の被告大学病院(以下「被告本院」という。)を有しており、そこには本症の権威の一人である訴外塚原勇眼科教授(以下「塚原教授」という。)が勤務していた。塚原教授は、光凝固のベテランであり、光凝固装置も被告本院のみにあったのであるから、被告および斎藤医師ら担当医師は、遅くとも、原告香織の眼が著しく悪化した昭和四八年八月七日、同原告を被告本院へ移して光凝固に備えるべきであった。

(2) 注意義務違反

斎藤医師は、本件当時までに硝子体混濁のある極小未熟児の眼が失明した経験を有したのであるから、原告香織の右眼が硝子体混濁した同年八月七日には、被告本院へ移して光凝固を受けさせるべきであったのに、これを怠ってそのまま放置し、更に同月九日左眼が硝子体出血した後には、前記のように眼底検査を一週間も行なわず、自ら光凝固を実施した経験がないにもかかわらず安易に光凝固不能と判断し、同原告が光凝固の実施を受ける機会を失なわせた。

(六) 説明義務について

(1) 注意義務

診療契約は人間の生命身体という根源的な法益に対する危険性と切り離せないものであるから、担当医師は、附随的な義務として、診療行為およびその結果につき患者およびその家族に説明し、納得させるべきである。酸素投与を受けた未熟児に本症発症の危険度が高いことは明白であるから、被告および担当医師は、原告香織の両親に対し、本症発生の危険のあること、本症の内容、予防方法、早期発見、早期治療の方法を伝えるべきである。

(2) 注意義務違反

被告病院の伊吹医師は、原告香織の入院時に原告豊實に対し「眼と命とどちらが大事か。」という質問をしたのみで、その後原告ら(原告豊實、同末子)に対し、ほとんど説明をしなかった。また、斎藤医師は、原告豊實、同末子に対し同香織の右目について状態が悪いことを告知していたが、左目については「自分は一度も失明児を出していないから大丈夫」といっていたのに、被告病院を退職するまで失明の事実を隠し、また原告末子に一度は被告本院に転院するような話をしながら、転院しないことについて説明をしなかった。

六  被告の債務不履行責任

診療契約においては、医療行為が人の生命、健康を管理するという特殊性から危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるものであるから、右注意義務は診療契約の債務内容となる。被告は、本件契約において、前記請求原因五2(一)ないし(六)の注意義務を遵守して原告香織の哺育を行なう債務を負っていたが、被告および履行補助者である伊吹医師、野呂医師、斎藤医師が右注意義務を怠ったため、原告香織の両眼失明という結果を惹起し、原告らに後記損害を与えた。よって、被告は原告らに対し債務不履行にもとづき、後記損害を賠償する責任がある。

七  被告の不法行為責任

1 被告は、原告香織を哺育するにあたり、前記請求原因五2(一)ないし(六)の注意義務を怠り、同原告を失明させたものであるから、民法七〇九条により、原告らに与えた後記損害を賠償する責任がある。

2 仮に、被告自体に民法七〇九条の責任が認められないとしても、原告香織の担当医であった伊吹医師、野呂医師、斎藤医師は、いずれも被告病院に勤務する医師であるから、被告は、民法第七一五条により右医師三名の使用者として、右医師らが前記注意義務を怠ったため原告香織を失明させ、原告らに与えた後記損害を賠償する責任がある。

八  損害

原告らは、原告香織が失明するに至った結果、次の財産上、精神上の損害を蒙った。

(一) 原告香織の損害 合計六〇一七万〇五三五円

1 逸失利益 二六七六万九八六三円

原告香織は、昭和四八年六月一五日生まれの女子であり、本件事故がなければ将来順調に成長し、学校を卒業したのちは六七才に達するまであるいは就職し、あるいは主婦となって稼働し、収入を得ることが可能であった。しかるに、同原告は本件事故により両眼の視力を完全に失い全盲となったのであるから、その労働能力を一〇〇パーセント喪失した。その逸失利益の算定については次のような方法によることが相当である。

即ち、同原告の稼働可能年数は、高校卒業時の一八才から六七才に達するまでの四九年間とし、毎年の収入額を昭和五三年賃金センサスの産業計、企業規模計、学歴計、女子労働者全年齢平均給与額である一六三万〇四〇〇円として、年五分の割合による中間利息をホフマン方式により控除する。

算式 1,630,400×(29・0224-12・6032)=26,769,863

2 介護料 一八四〇万〇六七二円

原告香織は全盲の状態にあるため、食事、着替、場所の移動等をするのが人手を借りないと困難である。同原告は、昭和五五年四月から小学校に通学しているが、通学は母親等の手を借りなければ一人では出来ない。このように、同原告によりほぼ一日中、母親、保母、友達等何人かによる介護の必要性が存することは多言をまたないところである。右の介護のためには、少くとも家族一人分の労働力を必要とし、しかもその介護労働にはたゆまぬ努力と細心の注意が要求されるものであり、その介護は少なくとも同原告が高等学校もしくは盲学校高等部を卒業する頃まで、即ち失明してのち一八年間はこれを続ける必要がある。

右介護労働の評価は職業的付添人の労働には及ばないとしても、少なくとも一般女子労働者の労働には匹敵すると考えられる。一般女子労働者の全年令平均給与日額(賃金センサス産業計、企業規模計、学歴計、女子労働者全年令平均給与欄の記載によって認められる一か月当りの現金給与額を一二倍したものに年間賞与その他特別給与額を加えた額を三六五で除した金額)が、昭和五二年度分は四一七二円、昭和五三年度は四四六六円であることなどを勘案すると、一日当りの介護料は少くとも四、〇〇〇円を下ることはない。そこで、介護料はその一八年分(一年を三六五日とする)につき、年五分の割合による中間利息をホフマン方式により控除して算出すると一八四〇万〇六七二円となる。

算式 4,000×365×12・6032(ホフマン係数)=18,400672

3 慰藉料 一五〇〇万円

原告香織は被告の過失によって、未熟児網膜症に罹患し両眼失明のため全く光を奪われ、暗黒の世界で一生を送らなければならなくなった。それに伴い、将来就労し得る機会をなくし、結婚し、出産し、育児するという女性の幸福を得る機会をなくした。もし、幸いにして将来、就労し、結婚することが出来たとしても、その際の苦労は計り知れない。更に、家事・衣服の着脱・用便・食事・外出・移動等といった日常生活動作に非常な障害が発生し、これは将来も継続する。これらの種々の障害によって生ずる精神的苦痛は察するに余りあるものがあり、その精神的被害は甚大である。この精神的苦痛に対する慰藉料としては、一五〇〇万円が相当である。

(二) 原告豊實、同末子、同博史の損害

原告豊實、同末子は原告香織の両親として、同博史は兄として、娘、妹が光を失ったことによる絶望はもちろん、この子の生涯を思う時、その精神的苦痛は同香織の死にも勝るものであり、これを慰藉するにはそれぞれ五〇〇万円をもって相当というべきである。

(三) 弁護士費用 各五〇万円

原告香織の右各費用の評価額を合計した額は六〇一七万〇五三五円となるところ、同原告はその内金として三〇〇〇万円を、原告豊實・同末子・同博史はそれぞれ五〇〇万円を被告に請求するが、被告は任意に右金員を支払わないので、原告らは本訴の提起を余儀なくされたところ、事案の性質上訴訟の追行を弁護士に委任せざるを得ず、本訴において勝訴判決を得た時は、右損害額の一割を手数料並びに謝金として訴訟代理人らに支払う旨約した。そこで、原告香織の弁護士費用として三〇〇万円、同豊實・同末子・同博史の弁護士費用としては各五〇万円が相当である。

九  結論

よって、原告らは被告に対し、被告の債務不履行および不法行為を原因として、原告香織は前記損害金の内、三三〇〇万円(内金三〇〇万円は弁護士費用)、同豊實、同末子、同博史は各五五〇万円ならびにこれらに対する本訴状送達日の翌日である昭和五一年五月二〇日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による金員の支払を求める。

(請求原因に対する認否および被告の主張)

一  請求原因一の事実は認める。

二  同二の事実のうち、原告香織が昭和四八年六月一五日午前九時頃被告病院で出生し、生下時体重一〇〇〇グラムの未熟児であったこと、被告と原告香織、同豊實、同末子との間で本件契約が締結されたこと(但し、契約内容は争う。)は認める。

原告香織は、妊娠七か月後半の出産であり、本件契約の内容は、「被告が医療一般の水準に照らして誠心誠意そのように努力する」というものである。原告博史が本件契約の当事者であるとの主張は争う。

三  同三の事実は認める。

四  同四の事実のうち、本症の発生原因が未熟児に投与された過剰な酸素によることが証明済みで動かし難い事実であることは争い、その余の事実は認める。本症の歴史、病態、予防法、治療法については、後記被告の主張のとおりである。

五  同五ないし八は争う。

六  原告香織の出生以来の臨床経過は別表記載のとおりである。

七  被告の主張(一)……医療水準について

被告病院は大学医学部付属病院であるから、一律に先端的水準を守るべきであるとはいえないものの、その医療機関の性質からして一般的な水準以上の医療を要求される地位にあることは否定しない。しかし、本件当時、本症に関する先端的医療水準に従ったとしても本症による失明を完全に防止しえたわけではなく、本件後もその医療水準は大きく変動しているが、未解決の問題が山積し、本症による失明を完全に防止する段階にまで至っていない。本症に関する研究、医療水準の変化は次のとおりである。

1 未熟児網膜症について

(一) 未熟児網膜症の発見とその定義

(1) 本症は、昭和一七年アメリカの医学者テリーが未熟児の水晶体の後部に線維組織が形成されているのを発見し、後水晶体線維増殖症(Retrolental fibroplasia.「R・L・F」)と名付けたのが最初の報告例といわれ、保育器が一般的に普及使用されるようになった昭和二〇年から七、八年間にアメリカをはじめ、オーストラリア等を中心に大発生し、小児失明の主要原因となるに及んで注目された。その間の研究を通じて、R・L・Fは本症の末期症状を指称するものにすぎず、多く未熟児の網膜に発症する疾患であることから、未熟児網膜症(Retinopathy of Prematurity)と呼称されるようになった。

(2) 現在では、本症は「発達途上の網膜血管に起こる非炎症性の血管病変であり、その大部分は未熟児にもおこるが、まれには成熟児にも起こる疾患である。」と定義されている(「未熟児網膜症の診断と治療」植村恭夫、日本眼科紀要、二六巻一〇号)。

(二) 未熟児網膜症の発生原因

(1) 生体に生じる疾患の原因は、すべて素因と誘因との競合によるが本症についても同様、現在としては素因としての未熟性、誘因としての酸素(大気中の酸素をも含む。)ヘモグロビン、貧血、輸血、光刺戟、麻酔などがあげられている。

したがって、素因からはなれて誘因ばかりを問題とすべきでなく、それがいかに素因とかかわるのか検討しなければならないのである。

(2) 本症研究の初期には、むしろ早産自体が本症の発生に原因的役割を示しているという考え方が有力であるとされたり、眼球の組織、殊に網膜の未熟が本症発生の基盤をなすことが一般に認められてはいるが、すべての未熟児がひとしく本症に罹患するわけではないとし、このような素因の他に直接の原因を考えねばならないとし、牛乳栄養、酸素の供給(高濃度環境下よりの離脱など)をあげているものもあるが、いずれも確定するに至らなかった。

(3) 昭和三九年の時点でも、本症の発生機序に関しては、先人の多くの動物実験、臨床実験、組織学的検索にもかかわらず、なお明確な定説をうるに至らず、それに伴い、本症の治療に関しては、ほとんど未開拓の状態であるとされていた。

(4) 昭和四一年の植村恭夫の勧告においても、欧米眼科医の多くの業績にもかかわらず未だ未解決の問題であると述べている。酸素の制限によって、本症が減少したことを指摘したあと「……このような適正な酸素使用にかかわらず、今回の報告にみるように、本症は、その数は少ないとはいえ、発生していることは明らかな事実である。従って、この際、更にその原因について検討を進める必要がある……」と言っている。

(「未熟児の眼科的管理の必要性について」植村・栃原、臨床眼科、二〇巻五号二四頁)

植村恭夫は、その後、昭和四二年の論文に於ても、完全と思われる酸素管理下においても発生していること、成熟児についても生ずることをあげ、原因として個体側の網膜の血管発育状態如何が大きな要素であり、さらにPO2の測定結果よりみると、酸素をとり入れる能力不足が、ヒボキシア(低酸素症)を起こす、大きな要素であると、現時点では考えられると述べている。

(「未熟児網膜症に関する研究」植村・田村、医療、二一巻八号)

(5) 昭和四三年、九大の高島幸男は、「……RLFの原因には種々の説があるが、酸素環境と未熟児眼底血管の未熟性ないし感受性が最も重視されているクベースの中の酸素濃度が低くてもRLFが発生すること、およびわれわれの第一例のように片眼にのみ症状を残している症例があることは、未熟児側に重大な素因があると考えられる。

最近、片眼のRLFがかなり発表されているのは、酸素環境の改善に注意がはらわれるようになって、眼の素因の方が目立ってきたのかもしれない……」と述べている。

(「退院時における未熟児眼底検査とその意義について」高島幸男、小児科診療、三一巻一号、一二九頁)

(6) 昭和四六年、田辺吉彦(名鉄病院、眼科)は、「……本疾患の本態が血管の異常増殖であることは諸家は一致している、網膜における血管新生の原因は、一般にanoxiaであってhyperoxiaではない。未熟児網膜症とて例外ではなく、酸素それ自体は本疾患の原因ではない……」と述べており、素因自体ではないとしている。

(「未熟児網膜症」田辺吉彦、現代医学、一九巻二号 二六〇頁)

(7) 昭和四九年、植村恭夫は、本症の原因・病態について綜合的な見解をまとめたが、その原因について、大要、つぎの如く分類している。

① 酸素との関係……これについては、未熟児網膜血管の酸素に対する反応が成熟網膜血管と異ることと酸素濃度と眼の感受性についてアルファノが未熟児を三群に分類したカテゴリーを紹介している。それによると、第一群では、大気中の酸素(二〇パーセントの濃度)に感受性を示し、第二群は、二〇~四〇パーセントに感受性を示し、第三群では、四〇~一〇〇パーセントで感受性を示すが、植村によるとこれは網膜血管の未熟度であるとしている。

② 酸素以外の要因……これには出生に伴う胎児ヘモグロビンの酸素飽和度の急激な上昇、胎児PO2値の新生児PO2値の変化、貧血、胎盤異常、姙婦の全身状態、光の影響などがあるとしている。

③ 未熟児側の要因……これをさらに二つに分け、一つは生下時体重一六〇〇グラム以下、在胎週数三二週以下の未熟性の強い児に生ずること、反覆する無呼吸発作を起しやすい児、呼吸窮迫症候群を起こす児に生ずるとしている。その二は、眼科側の要因であり、最も重視されるのは、網膜血管の未熟性であるとしている。

(「未熟児網膜症をめぐって」植村恭夫、産科と婦人科、四一巻九号)

(三) 未熟児網膜症の臨床経過

(1) 本症の臨床経過の分類

(イ) 未熟児網膜症の臨床経過は多様であり、完全な臨床的分類法を作成することは真に困難なことである。既述のとおり、従来の臨床経過の分類法としては、スツェベクチック、リース、オーエンス、パッツらの分類法があるが、昭和二七年から昭和三〇年時代のものが大部分である。我が国では、研究者は主に本症の臨床経過を、活動期・寛解期・瘢痕期の三期に大別し、活動期をⅠからⅤ期に、瘢痕期をⅠからⅤ期に各分類するオーエンスの分類に準拠して発生率、自然治癒率、光凝固・冷凍凝固の適応・限界などを論じてきたが、未熟児の哺育、わけても極小未熟児の哺育の進歩・普及と相俟って本症の研究が進むにつれ、従来の臨床経過の分類法が必ずしも現代におはて一率に適用し難いものとされ、このため各研究者によって様々の分類が出されるにいたった。

(ロ) そこで、厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班(以下「厚生省・研究班」という。)は、右のような実状をふまえ、本症に対する臨床的経過の分類の基準の検討を行うこととし、植村恭夫を主任研究員とする厚生省研究班は、種々討論を加え検討した結果、昭和五〇年三月に「未熟児網膜症の診断および治療基準」を報告し、そのなかで、本症に対する臨床経過、予後の点より、これを、Ⅰ型とⅡ型とに大別分類している。

① Ⅰ型の未熟児網膜症とその臨床的分類

この型の未熟児網膜症は主として、耳側周辺に増殖性変化をおこし、検眼鏡的に、血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過を辿るものであり、自然治癒傾向の強い型である。このⅠ型は、つぎのとおり、第1期から第4期に分類される。

(ⅰ) 第1期<血管新生期>

網膜周辺、ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化はないが、軽度の血管の迂曲怒張を認める。

(ⅱ) 第2期<境界線形成期>

周辺、ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の迂曲怒張を認める。

(ⅲ) 第3期<硝子体内滲出と増殖期>

硝子体内への滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。

(ⅳ) 第4期<網膜剥離期>

明らかな牽引性網膜剥離の認められるもので、耳側の限局性剥離から全周剥離までが含まれる。

② Ⅱ型の未熟児網膜症とその臨床的分類

この型の未熟児網膜症は、激症型であり主として極小未熟児にみられ、とくに未熟性の強い眼に発生し、初発症状は血管新生が後極よりにおこり、耳側のみならず鼻側にもみられることがあり、無血管領域は広くその領域はヘイジィー・メディア(hazy media)でかくされていて不明瞭であることが多い。後極部の血管の迂曲怒張も著明となり滲出性変化も強くおこり、Ⅰ型とは異なり、段階的経過を辿ることが少なく、比較的急速に網膜剥離へと進行する型のもので、現在の最高の水準をもってしても三分の一程度しか救いえないとされ、自然治癒傾向が少なく、予後不良型のものである。したがって、従来本症で失明した児の大部分はこのⅡ型或いは混合型であると考えられている。

③ 混合型の未熟児網膜症

右の分類のほかに、きわめて少数ではあるが、Ⅰ型とⅡ型の混合型ともいえる型の未熟児網膜症がある。

(「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班・昭和五〇年三月)

(ハ) 以上が、厚生省研究班の研究の結果報告にかかる本症の臨床経過についての分類であるが、本症Ⅱ型については、その臨床像がきわめて多様でありその初期像及び臨床経過や診断基準が必ずしも明確になされていなかった。しかし、その後国立小児病院眼科の森実秀子は、本症Ⅱ型の研究結果を昭和五一年一月日本眼科学会雑誌に発表した。これによれば、森実秀子は、本症Ⅱ型の診断基準について、次のように述べている。

①  Ⅱ型の診断基準

Ⅱ型と称される激症型未熟児網膜症は、次の如き眼底像を示す。

(ⅰ) 血管の迂曲怒張

網膜動脈が後極部はもとより四象限全ての方向に向い迂曲し更に静脈の怒張も加わる。

(ⅱ) 吻合形成

血管帯と無血管帯との境界部に新生血管が叢状をなして吻合形成が多数に認められ、所々に出血斑も存在する。

(ⅲ) 血管帯の位置が特殊な圏に存在する。

この特殊の圏とは、耳側は黄斑部外輪予定部付近、鼻側は乳頭から二~三乳頭径の範囲に、右(ⅰ)、(ⅱ)を含めた血管帯が一周し存在する(印象としては、とくにこの初期症状が比較的鼻側上方に早期に現われ、ついで耳側上方に発現する例が多い。)

②  Ⅱ型の初期像と臨床経過

Ⅱ型の診断は、右に述べた(ⅰ)ないし(ⅲ)の三要件がすべてそろった場合に確定しうると考えるが、実はこれだけの症状がそろった時期は相当進行した段階であり、これ以後の進行増悪は極めて急激な経過をとるのが通例である。したがって、如何にしてⅡ型の確証を早期にとらえるかということが治療上の極めて重要なポイントとなる。ところが多くの場合、Ⅱ型の初期像は児の全身状態がきわめて悪い時期であるこや眼が未熟であること(ヘイジーメディアの存在)から発見が遅れがちであり、したがって、眼底写真も撮影不可能の場合が多く、研究者間の情報の交流が得られない状況にある。

(森実秀子「未熟児網膜症第Ⅱ型(激症型)の初期像および臨床経過について」日本眼科学会雑誌第八〇巻一号・昭和五一年一月一〇日発行)

厚生省研究班の報告ならびに森実秀子の研究報告からもわかるように、Ⅱ型の本症は、主として極小未熟児にみられ、Ⅰ型の如き活動期1期から2期・3期・4期と段階的経過はとらず、森実秀子のいう三要件が具備した場合にはじめて確証を得ることが可能となるのであるが、右の三要件具備段階から極めて急激に網膜剥離にまで進行する。しかも、予後不良のものであり、予防・治療上、多くの困難な問題を包蔵していることが理解される。

そして、右厚生省、森実の研究は昭和五〇年以降の成果であり、本件当時には、従来の本症の分類法が存するだけであって、本症Ⅱ型の病型が確定していなかったものである。

(2) 本症の瘢痕期の診断とその基準

① 厚生省研究班は、本症の瘢痕期に関し、つぎの如き研究結果を報告している。すなわち、

「未熟児網膜症の瘢痕病変は、検眼鏡的にも、病理学的にも特殊性を欠いており、活動期よりの経過をみていない場合には、鑑別すべき多くの眼疾があり、未熟児網膜症による瘢痕と確定診断を下すことは甚だ困難である。例えば、白色瞳孔を示すに至ったものでは、網膜芽細胞腫、第一次硝子体過形成遺残、網膜異形成症候群、コーツ病などとの鑑別を必要とする。鑑別には、出生時体重、在胎週数、酸素療法などの既往は、参考とはなるが、確診を下すことは難しい。牽引乳頭、網膜襞形成も先天性鎌状剥離や胎生期あるいは周生期における種々の眼疾によってもたらされることが多く、白色瞳孔以上に、未熟児網膜症の瘢痕と診断することは困難といえる。……自ら活動期の経過を観察していたものか、あるいは他の眼科医が活動期病変を診ていたことが明らかな症例については、未熟児網膜症の瘢痕と診断しうるが、そうではなく、はじめて外来を訪れたような症例については、『疑い』の域にとどまらざるを得ない。」としている。

このように、未熟児に眼疾患がある場合でも、それが真に未熟児網膜症なのか、他の疾患であるかの判定は決して容易ではなく、これが我が国における本症研究の権威者らの一致した見解であって、未熟児に対する眼疾患鑑別の困難性を如実に示しているといえる。

② また、厚生省研究班は、本証の瘢痕期の程度について、つぎの如く分類している。

(ⅰ) 1度―眼底後極部には著変がなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化のみられるもので、視力は正常のものが大部分である。

(ⅱ) 2度―牽引乳頭を示すもので、網膜血管の耳側への牽引、黄班部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す。

(ⅲ) 3度―網膜襞形成を示すもので、鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、これに血管がとりかこまれ、襞を形成し周辺に向って走り、周辺部の白色組織塊につながる。視力は〇・一以下で、弱視または盲教育の対象となる。

(ⅳ) 4度―水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領よりみられるので、視力障害は最も高度であり、盲教育の対象となる。

2 未熟児に対する酸素療法について

(一) 未熟児に対する酸素投与の必要性

二〇〇〇グラム以下の未熟児はしばしば呼吸が浅く、肺胞が十分拡張するのに一週~二週を要するのが多く、はなはだしいときは一か月も要するので、保育器内で生後一定時間酸素吸入をして順調に肺胞が拡大するのを助けねばならないうえ、未熟児の持つ病変は未熟度の如何によって死亡の危険がつねに存在するアノキシアと密接な関係にあるので、出生後少しでも呼吸促迫やチアノーゼがみられたら、生後直ちに酸素を投与することが不可欠である。未熟児に対する酸素療法は、新生児に対する不規則呼吸の改善、ひいてはその生命の救済という観点から始まったものであるが、現在に於ても、低酸素症の改善を最も重要な目的とする。

(二) わが国における酸素療法の歴史

わが国においては、昭和二〇年から昭和二五年にかけて英米において本症が多発した当時は、いまだ未熟児の哺育は普及しておらず、昭和三〇年以降の酸素療法の制限以後に普及した事情があったため、当初わが国では本症に対する関心は基本的に少なく、もはや過去の疾患として考えられており、本症と酸素療法との関係についての研究は、ごく限定されたものであった。

右の前提条件でわが国の未熟児哺育は始まったのであるが、以下酸素療法の歴史を概観する。

(1) 昭和三〇年~昭和三九年

酸素療法と本症との関係についての研究は、昭和三六年頃までは、英米での酸素投与制限を前提として、小児科・産科の未熟児哺育基準は、保育器内酸素濃度を四〇パーセント以上にしないことを動かしがたいものとしていたが、昭和三七年頃から画一的な酸素投与によって逆に生命を失なうという批判がではじめてきた(「新生児呼吸障害の治療」小川次郎、小児科治療二五巻一号、昭和三七年)。

(2) 昭和四〇年~昭和四四年

① 昭和四一年、日本産科婦人科学会新生児委員会は「新生児学」のなかにおいて、つぎのような基準を示している。前提としてO2八〇パーセント濃度と本症の発生にふれたあと、「……したがって、保育器内で長時間O2吸入をするときは、O2濃度を四〇パーセント以下におさえてやらねばならない。このためには正確なO2濃度測定器で保育器中のO2流量と濃度を定期的に測る必要がある。ただし、このO2濃度制限は、チアノーゼのない未熟児にむやみに長時間高濃度O2の吸入をしないようにということで、未熟児にチアノーゼがあったり、分娩直後の仮死蘇生術のときは、四〇パーセント以上であっても差支えない……」。(「新生児学」二八一頁)

② 昭和四二年三月に全改訂版が発行された、医学シンポジューム「未熟児」は未熟児哺育に関する集大成的なものであるが、この中にもつぎのような記載がある。

「……酸素の過剰投与とは、酸素が不必要になった後も引き続き使用(特に酸素濃度四〇パーセント以上)することをいう……」

この定義によれば、漫然と四〇パーセントをこえる場合を「過剰」としているようである。

また、「アメリカ小児科学会は未熟児に対する酸素の使用に関してつぎのように述べている……」として、昭和三九年のAAPの勧告をあげ「……酸素の聡明な使用は、低酸素血症・呼吸困難・チアノーゼのある児の生命を救う手段となることがある、未熟児の或者の眼に傷害を与える危険があるからといって、任意に適切な酸素の使用を(そして恐なく生命も)否定することは賢明でないであろう、と、筆者が一九六三年(昭和三八年)に見学した米国の諸施設では、臨床的に必要な場合には酸素濃度を一〇〇パーセント近く迄上昇させていたが、同時に、児の症状を頻回に観察することに重点を置き、症状が好転したら、直ちに減量、ついで中止していた……」と記載している。

③ 昭和四三年、馬場一雄は「新生児病学」を著したが、その中で、未熟児で、生下時体重一〇〇〇グラム以下のものは九〇パーセントが、一〇〇一~一五〇〇グラムは約半数が、一五〇一~二〇〇〇グラムは四分の一が、二〇〇一~二五〇〇グラムは約一割がそれぞれ四週間以内に死亡するという事実を指摘している。

また投与量については、酸素濃度は六〇パーセント以下、通常四〇パーセント程度にすることも主張している。

(「未熟児の保育」馬場一雄、四三頁、昭和四一年発行)

④ 昭和四三年五月、日本小児科学会新生児委員会は、委員会勧告として、「未熟児管理に関する勧告」を発表した。これは、アメリカの未熟児哺育の基準を参考に理想としてかかげたものであるが、その未熟児哺育の原則の第三四項には、つぎの記載がある。

「酸素投与は医師の指示によって行う。保育器内の酸素濃度は定期的に測定・記録されなければならない」

この基準においては、もはや画一的四〇パーセント制限説はあらわれず、児の状態の如何により、濃度の指示は医師の自由裁量にゆだねられ、必要の範囲を制限しないことになったように理解できるのである。

この基準案の作成は、委員長に馬場一雄をあて、以下、未熟児・新生児の権威者一七名を集めてなされたものである。ちなみに眼底検査の項はない。

⑤ 昭和四三年、九大小児科教室の高嶋幸男らは、退院時の未熟児眼底検査の意義についての論文を発表したが、本症の予防と治療についてベッドロシアン・スツェベクチックの説を引用し、四〇パーセント以下、酸素濃度は漸減すること、酸素停止は徐々に行い、初期変化を認めたならば高濃度酸素下にもどすことを述べている。

(「退院時における未熟児眼底検査とその意義について」小児科診療、三一巻一号)

⑥ 昭和四三年、国立小児科病院の奥山医師は、未熟児管理の現状にふれ、未熟児に対して酸素を投与する場合は、動脈のPO2をめやすにすることが理想的であること、しかし、そのため、血液を反覆して採取することは、極めて困難であること、本症発生の危険度はPO2が一五〇mmHgになること、呼吸障害のある児・チアノーゼの児には高濃度の酸素を与えるべきことが主張された。

(「未熟児管理の現況」奥山和男、眼科、二〇巻九号六三一頁)

⑦ 昭和四四年、定評のある東大小児科治療指針(高津忠夫監修・馬場一雄、小宮弘毅分担)では酸素投与について次のような指示を行っている。

(ⅰ) チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対しても総て酸素を供給すべきか否かについては議論がある。

(ⅱ) 一度、無酸素症に陥れば無酸素性脳障害や無酸素性脳出血を起こす可能性が考えられるので、ルーチンに酸素を行うこともあるが、この場合は、三〇パーセント以下にとどめる。

(ⅲ) 眼底検査については記載がない(以上、同書、五五六頁)。

右に述べた如く、昭和四〇年代前半では、一部の例外はあっても、生命のためには必要にして十分与えるべきであること、医師の自由裁量の巾が広がってきたことがうかがわれる。さらに環境酸素濃度より血中酸素濃度の測定の必要性が唱えられたことが注目される。

(3) 昭和四五年~昭和五〇年

⑧ 昭和四五年、関西医大の小児科・眼科のプロジェクトチームは、本症の発生要因と眼の管理について発表したが、この中で、世界の現況が積極的に高濃度酸素療法(IRDSに対し)を行うべきであるという動向であることを前提とし、酸素療法については、濃度の測定は一日三回、一分一リットルで最高四一パーセント最低二三パーセント(平均二四・八パーセント)一分一・五リットルで最高値が三九パーセント(平均三五・四パーセント)最低値二二パーセント(平均二四パーセント)一分二リットルで最高値四二パーセント(平均四二パーセント)最低値は二一パーセント(平均二二パーセント)の結果を示し、注目すべきこととして、網膜症が発生したほとんどの症例は制限の四〇パーセント以内であること、酸素投与を行っていない小数例においても網膜症の発生がみられた、ということを述べている。

そして「……私達も日常未熟児保育を行っていて、実際にクベース内酸素濃度を頻回に測定し、児の血液ガス分析を行い、週一回検眼を行って、眼の管理に充分な注意をはらっているにもかかわらず、昭和四二年三月から四四年四月までの二年間に観察した未熟児一八〇例のうち、一七例(九・四四パーセント)に本症の発生をみている……」と述べ、哺育の限界をなげいているのである。

かくも周到なプロジェクトチームによるトップレベルの未熟児哺育においてもこのような現実であり、その結果が一つの問題として、今後の検討課題とされていることは、この時点の(昭和四五年)医療水準及び未熟児哺育の至難なことを物語るものといえよう。

(「未熟児網膜症の発生要因と眼の管理について」岩瀬師子ほか、小児外科・内科・第二巻二号一三一頁~一三八頁)

⑨ 昭和四六年、九州大学の大島健司らは、本症の治療に関し、論文を発表しているが、補給酸素濃度と使用期間および本症の関係について、つぎのように述べている。

「……数例を除いて、酸素濃度はほとんど四〇パーセント以下におさえられているため、使用期間の長い方に高度の瘢痕例が多い、注目すべきことは、全く酸素の補給をうけていないにも拘らず、一二例の瘢痕症例がみられたことである。しかも、その半数は高度の症例であった、このことは酸素以外の因子、すなわち、児側に明らかに発症の因子があったことを示している……」

また、生下時体重二五〇〇グラム以下で、全く酸素の補給をうけなかったにも拘らず九例の瘢痕期病変があり、しかも、その半数は高度の病変であったと述べていること、さらに、従来安全とされていた三〇~四〇パーセント以下の酸素補給例や、PO2を一〇〇mmHg以下に保ち得た未熟児にも本症の発生がみられるに至ったことを指摘している。

(「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題点」大島健司ら、日本眼科紀要二二巻九号)

前掲の関西医大の研究グループの報告とあわせても、いかに医学の進歩に多くの隘路があり、障害の克服に非常な努力が要求されるかが理解できるのである。

⑩ 昭和四六年度に発行された現代産科婦人科大系は集大成的な基本書であるが、二〇巻B、新生児学各論で馬場一雄らは、予防として酸素濃度は四〇パーセント以下、治療としては、早期には発見されたら一度五〇~六〇パーセントにあげ、その後段階的に減圧してゆくのが妥当だとしている。

基本書の執筆の態度として、約五年前の知識で書くべきであるというのが一般的であるが、先進的な雑誌論文ではなく、臨床の読むものと考えられるこのような基本書の考え方ではまだ雑誌論文の主張はそのまま取入れていないことがうかがわれる。

(「未熟児」現代産科婦人科大系二〇B七〇頁)

⑪ 昭和四七年、国立小児病院小児科医長の奥山和男らは、本症と酸素療法について論文を発表している。

この中で、酸素療法の不可欠と本症との二律背反の悩みにふれ、未熟児に対する適切な酸素療法と未熟児網膜症の予防対策は、今後決定されるべき大きな問題であると述べている。

奥山らは、国立小児病院開設以来(昭和四一年)この時に至るまでの本症の研究を専ら小児科医として、また、植村眼科医長と共同のプロジェクトチームを組んで行ってきたものであるが、その研究の過程をふまえても尚、今後の課題であるといわざるを得ないほど研究につれて、新たな問題が発生してきたことをあらわすものである。

その中でも、本症の発生には網膜の未熟性が重大な要因であることを指摘し、また、四〇パーセント以下でも危険であること、一方、呼吸障害を有する未熟児に対して四〇パーセント以上の高濃度の酸素を与えても、動脈血中のPO2は上昇しないこと、九〇~一〇〇パーセントの投与でも発症のないことから、環境の酸素濃度と本症との間には関係は認められないと述べている。

また、それでは、動脈血中のPO2がどれくらいまで上昇すれば網膜を傷害するのか、まだ知られていないとし、採血方法の容易でないこと、一日、一回~二回の測定では結論がだしえないこと、PO2の安全の上限が解明されていないことなどから、PO2の値を継続的に測定することのできる装置の開発が望まれること、ワーレイとガードナーの酸素投与の基準すなわち、チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高めそれから徐々に酸素濃度を下げて、軽くチアノーゼが現れるときの酸素濃度をしらべ、その濃度の四分の一だけ濃度を維持する。例えば六〇パーセントでチアノーゼがあれば七五パーセントの濃度に保つことである。

この奥山らの研究はやはり当時のわが国の最高水準であると思われるが、研究が進めば進むほど、今後の課題となりうることの多さが理解できるわけである。

酸素療法と本症との関係が更に困難化してきたこと、動脈血中のPO2も環境酸素濃度の基準に代るものとして考えられながらも、明確な基準が設定しえないことがわかるのである。

(「未熟児網膜症と酸素療法―小児科医の立場から」奥山和男ほか、小児科臨床、二五巻六号一三~一九頁)

⑫ 昭和四九年、武田佳彦(岡山大学)は、未熟児に対する酸素療法の問題点について論文を発表したが、その主要な点はつぎの通りである。

(ⅰ) 酸素投与の適否について低酸素症の診断は必ずしも容易ではなく、PO2の測定方法・手技の困難さ・熟練度が要求されるという前提の解決がむずかしい。

(ⅱ) 酸素投与の効果と、調節性の困難さから、本症の予防のためのPO2の限界域が定まらないこと。

(ⅲ) 本症と酸素療法とにふれて、名市大馬場教授、前掲の国立小児病院の奥山らの報告から、現在の医療措置には限界があること。

このように挙げているが、(ⅲ)については、つぎの如く詳説している。

「……これらの事実は、酸素管理に極めて重大な示唆を与えるものであり、本邦に於て、最も充実した未熟児管理を行っている名市大及び国立小児病院の成績であることを考えると、現在の未熟児管理体制の限界を示していると見てよいであろう、又単胎児より双胎児に発生頻度が高いこと、貧血と相関すること、あるいは、酸素非投与群でも網膜症の発症を見ることなどから本症の成立機能は単に酸素濃度のみによるDoserespones的な相関ばかりでなく、素因的な網膜の未熟性との関連が強調されるべきであろう……」としている。

(「酸素療法の問題点」武田佳彦、産科と婦人科、四一巻九号二二頁以下)

昭和四九年の時点においてさえ、本症と酸素療法の問題は解決されていなかった。

⑬ 昭和五〇年、小宮弘毅(神奈川県立子どもセンター小児科)は、動脈血中のPO2の値の測定の困難さと測定していない時期におけるPO2の値の変動が知りえないこと、腹部大動脈に電極を留置する方法も、呼吸障害の極期の比較的短期間については実用に供されているが、本症に関連する長期の酸素療法の指標になりえない、と述べている。

(「未熟児網膜症―小児科医の立場から」小宮弘毅、周産期医学、五巻四号一一~一八頁)

また右論文の結語のところにおいて「……現状においては、本症の完全な予防は不可能であり、発症した場合の治療にも限界があるといわざるをえない。その意味では未熟児網膜症はいわゆる医療事故とは異なり、未熟児とくに極小未熟児に発症する危険の少なくない合併症と考えるべきであろう。」と述べている。

⑭ 昭和五〇年、山内逸郎(国立岡山病院小児科部長)は未熟児哺育のパイオニア的存在の一人であるが、特に経皮的酸素分圧測定法に関して論文を発表した。

その中で、未熟児の酸素療法における持続的監視法としての経皮的酸素分圧測定を行った結果、ある酸素濃度について、どの未熟児も同じ反応を示すわけでもなく、呼吸運動の如何によっても直ちに血中PO2の値は変動すること、特に無呼吸発作に於て著しいこと、短時間におけるPO2の変動が著しいことを説明している。

(「血液酸素分圧の測定―特に経皮的酸素分圧測定法について―」山内逸郎、小児科臨床、二八巻一号)

⑮ 昭和五〇年、山本節(兵庫県立こども病院眼科)は、この山内の測定方法にふれ、「……最近山内によれば、皮膚面よりPO2を測定する方法が開発され、それを用いると数分間の間でも呼吸の不安定な未熟児のPO2は一〇〇mmHg前後から一〇~三〇mmHg以下まで何度も変動すると発表した。

したがって、無呼吸発作時などに、PO2を一旦数回測定したとしてもまったく意味のないことになる……」と述べている。

(「未熟児網膜症―病因論と眼科」山本節、周産期医学、五巻四号三~九頁)

(三) 酸素療法と本症との関係

(1) 未熟児に対する酸素投与は、その呼吸機能の改善、更には生命の救済を目的とするが、酸素投与が過少であれば、未熟児(とりわけ極小未熟児)が一旦無酸素症に陥いれば、無酸素性脳障害を惹起し、また肺硝子症等により生命を失なう結果を招く反面、投与が過剰であると本症によって失明することもあり、生命か、脳か、眼かのいわば三律背反の関係にある。

(2) 保育器内酸素濃度を四〇パーセント以下に制限する酸素投与は、母国アメリカにおいて、本症の減少のかわりに、多くの未熟児死亡と脳障害を生んだものであり、あくまで本症防止法の一仮説にしかすぎず、本件当時ないし現在において酸素療法については、右三律背反の中で、投与方法、量、酸素濃度指標等に関し諸見解が対立し、定説は存在しない状態である。

(3) また、四〇パーセント以下に酸素制限しても、本症の発症がみられ、極小未熟児においては、本症の原因は未熟性そのものにあり、酸素供給が決定的要因となるものではない。

(四) 血中酸素濃度(PaO2)測定について

(1) 本件当時、一部の先進的医療機関で実験的に試みられていた以外には、一定水準の未熟センターでPaO2の頻回測定は普及化に至っておらず、未熟児の状態悪化時に測定することも一般化していなかった。

(2) またPaO2は短時間の間に大きく変動するため、断続的測定では実態を正確に捉えることは困難であり、採血によるPaO2測定は危険と困難を伴うもので、かつ本件当時には経皮的酸素分圧測定法はわが国では行なわれていなかった。

3 光凝固法・冷凍凝固法について

(一) 光凝固法・冷凍凝固法とは、

光凝固法はドイツのマイヤー・シュヴィッケラートが創始者であり、太陽のような強い光源を直接見ると眼底に火傷ができるという事実があるなら、これを逆に使って強い光線を眼内に送り込んで眼底を火傷させることができるだろうとの着想から、成人の網膜剥離の治療法として開発された。本症に対する治療法としての光凝固法は、昭和四三年天理よろず相談所病院の永田誠医師らが本症に応用し、発育途上にある未熟児網膜の組織を光で焼灼凝固することにより頓挫的に病勢の中断されるのを経験したと報告したことに始まる(臨床眼科二二巻四号、昭和四三年四月発行)。

本症に対する治療法としての冷凍凝固法は、昭和四七年東北大学の山下由紀子がキーラー社製・アモイルス冷凍装置を用いて本症の活動期病変の治療に応用し、病変部を凍結凝固することにより光凝固法とほぼ同様の効果を得られるとの臨床実験の結果を発表報告したことに始まる(臨床眼科二六巻三号、昭和四七年三月発行)。

(二) 光凝固法開発後の研究発展

(1) 昭和四三年~同四四年

永田誠が光凝固法につき昭和四二年秋に学会報告し、同四三年四月文献的研究報告(臨床眼科二二巻四号)をしたが、一部の本症の研究者を除いては、眼科学界、産婦人科学界とも一般的反響はほとんどなく、未熟児眼科の権威とされる塚原勇も昭和四三年七月刊の「新生児と脳と神経」において「最近光凝固法により網膜周辺の血管新生、網膜病巣を熱凝固することにより病勢の進行を阻止し得た症例がある。着想は興味深いが、症例も少なく術後の観察期間も短いので、治療法としての価値の判定はさらに今後の問題である。」と述べるにとどまる状況であった。

(2) 昭和四五年

永田誠は、一〇例の追加症例について報告し「光凝固法は現在本症の最も確実な治療法ということができる。」と述べている(臨床眼科二四巻一一号、昭和四五年一一月刊)。

しかし、岩瀬師子(関西医科大学小児科)は、その論文の中で「最近光凝固法による治療法が提唱されているが、われわれは症例を経験していないので価値を論ずることはできない。」と述べ(「未熟児網膜症の発生要因と眼の管理について」小児外科内科二巻二号、昭和四五年二月刊)、未熟児哺育の研究者の同年発表の論文にもほとんど光凝固法について触れられておらず、光凝固法に触れたものも、文献的紹介にとどまるものであった(例えば、植村恭夫、小児科一一巻七号)。

このように、昭和四五年末時点においては、永田誠以外による光凝固法の臨床試験ないし追試報告例は一編も見当らず、客観的評価は皆無に等しかったといえる。

(3) 昭和四六年

昭和四六年三月刊の「小児外科内科」の「未熟児網膜症Retinopathy of prematurity」中で、植村恭夫は「未熟児網膜症は、予防が第一である。そのためには、まず未熟児をうまないようにすることがもっともよいことはいうまでもない。人によっては、未熟児網膜症の確実な予防は、これ以外にはないとさえいう。」と述べたのち、「光凝固法の登場により、より有効な治療の武器が与えられ、難治の本症にも、その前途に光明が与えられるに至った。」としつつも、

「しかし、この光凝固法にも適期がある。……Ⅳ期と考える進行例には全く無効である。Ⅲ期よりⅣ期に至る期間はきわめて短かく、時には、二~三日の経過のこともあるが、三~四週間かかる場合もある。この期間が決断を迫まられる重要な時期となる。……発症する患児にはRDSのように全身状態が不良なものが多く、その移送や手術に危険なこともある。」と述べており、適期の判定の困難性や危険性にも触れ、本法の有効性・安全性の確保に幾多の障害のあることを指摘している。また、産婦人科医の成書(教科書)と目される、同じ昭和四六年一一月刊の「現代産科婦人科学大系20B新生児学各論四三一頁」のd治療の項において、「現時点においては、未熟児網膜症の確実な予防あるいは治療法はない。」と消極的な姿勢を示している。

昭和四六年四月刊の「臨床眼科」二五巻四号に、上原雅美らは「未熟児網膜症の急速な増悪と光凝固」と題する光凝固追試の研究報告を行っているが、五症例に光凝固を試みた結果にもとづき、「周知のように本症の軽症例は自然治癒の傾向が著しい。……従って光凝固を行なう適応の選定が問題となる。」と述べ、失明例を具体的に紹介したのち、「極端な未熟児では、眼底周辺検査が困難であり、検査が可能となった時には既に重症な網膜症が発生しており、光凝固が十分にその効果をあらわさないというやむを得ぬ症例も存在する。また、周辺を広範に光凝固を行ない、後極部付近に一見障害を残さずに治癒せしめ得たと考えられる症例の実際の視機能に関しては、今後の研究(観察)に残される。」と結んでおり、高い自然治癒率(上原らの場合は八七・五%の自然治癒率を示している。)との関連での病像の把握と適応選定の困難性のほか、有効性及び安全性の確保に今後の研究が残されているとの指摘に注目する必要があろう。

昭和四六年度版「新生児の脳と神経」(小児科医用成書)においても、塚原勇(関西医科大学眼科教授)は昭和四三年度版のまま改訂せず、依然として、光凝固法の本症治療法としての価値の判定はさらに今後の問題であるとの立場を堅持している。

昭和四六年八月刊の「臨床眼科全書4・眼病各論Ⅱ」(三国政吉、木村重男)は、眼病医のための成書(教科書)であるが、本症の治療の項において、「一度発病すると、治療方法のない疾患である……各種の治療法はいずれも効果を期待出来ない。」としており、しかも光凝固については一言も触れていない。

昭和四六年一〇月刊の「季刊小児医学」四巻四号の「水晶体後部線維増殖症」中において、奥山和夫は本症の治療に触れているが、右は実証的文献ではなく、永田の見解を紹介したに止まる抽象的な見解に過ぎず、本法の安全性・有効性の評価の対象たり得ない。昭和四六年一一月刊の奥山和夫著「未熟児網膜症の予防と対策」(日本小児科学会雑誌七五巻一一号)も右と同旨の文献で全く実証性のない論文である。

昭和四六年一一月刊の「現代医学」一九巻二号の「未熟児網膜症」と題する論文の中で、田辺吉彦(名鉄病院眼科)は光凝固の追試研究の結果を報告しているが、「最後に光凝固は始まって僅か四年である。未熟な眼への信襲が生長するにつれてどの様な影響を及ぼすかデータはない。永田の最初の症例は目下四才で〇・九の視力を有し、格別の異常は認めないという、今後共経過追跡が大切である。」(同書二六四頁)と述べている。

昭和四六年九月刊の「日本眼科紀要」二二巻九号において、大島健司らは、「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題点」と題する論文を発表し光凝固法による大島ら独自の臨床試験(実験)の研究報告をしているが、前記の上原ら同様今後なお検討すべき問題点を提起しており、凝固の方法、時期等につき意見を述べるにとどまり、有効性・安全性についての確たる結論が示されていない。

以上、それぞれの文献の考察から理解されるように、昭和四六年中は本症の先駆的研究者らの研究(臨床試験ないし追試)結果が文献的に初めて報告された時期であり、その結果を見ても分かるように、実地医療への足がかりにも程遠い、研究途上にあったということができる。とりわけ強調すべきは研究者らの研究が右のとおり漸く緒についたといえると同時に、右③の及びにみられるごとく、この年に発刊の本症に関する眼科医、小児科医、産婦人科医のための成書(教科書)中には、光凝固法を含め治療法そのものに消極的姿勢を示している点であろう。

(4) 昭和四七年

永田誠らの総括的報告とこれに対する反響と批判

永田誠らは、昭和四七年三月刊の「臨床眼科」二六巻三号の「未熟児網膜症の光凝固による治療(Ⅲ)」と題する論文の中で過去五年間の総括と称して二五症例に光凝固を試みた研究報告を行い、その中で光凝固法が理論的に完成した旨述べている。

この報告に対しては、様々な質疑応答がなされ、安全性および有効性の確保の問題に論議が集中しており、永田自身質問に対し、経験の蓄積・症例の蓄積の必要性や情報交換の必要を認めており、その他の研究者らの報告内容からしても本症に対する光凝固は多くの問題を抱えていることを窺い知ることができるのである。

昭和四七年一月刊の眼科臨床医報六六巻一号で本多繁昭は、「原著・臨床実験―未熟児網膜症にたいする光凝固ならびに凍結凝固の経験」と題し、本症一〇症例に光凝固または凍結凝固(冷凍凝固)を実施してその進行を停止させることができたことと凝固の適期についての自己の見解を披瀝したうえ、安全性(副作用)の問題に関し、「今後のもっとも大切なことはこれらの凝固例がどのような経過をとるかということである。鋸状縁より網膜周辺部は硝子体の構造からも重要なところであり今後に残された問題である。著者も上記症例についてできるだけフォロー・アップするつもりである。」と述べている。

昭和四七年四月刊の小児科一三巻四号の「未熟児網膜症の予後」の中で、植村恭夫は光凝固の有効性に触れつつも、「しかし、まれではあるが、発症して急速に網膜剥離に至るRush typeのものもあり、光凝固装置の普及、それをもっている病院との密接な連繋、適切なる手術方法、適期・光凝固による影響など未だ研究途上の問題もある。」と述べている。

昭和四七年五月刊の日眼会誌七六巻五号で「未熟児網膜症と光凝固療法」と題し、田辺吉彦ら(名鉄病院)は光凝固施行症例の結果につき、報告しているが、追試として発表すると明言したうえ、「本疾患の軽い時期に自然寛解の多い理由は、初期では一寸したきっかけから悪循環を脱することができる為と思われる。一眼は失明し他眼は正常に近いという症例があることはこれを裏書している、僅かの光凝固はそのきっかけとなるものと思われる。」と述べ、続いて、安全性(副作用)に関し、「発育途上の未熟な眼球に光凝固を行うことが将来の発育にどのような影響を及ぼすかはまだ観察がなく、自然寛解の可能性のある眼に光凝固を行うことに凝問がなくはない」と述べ、この点が未だ未解決であることを明言している。

昭和四七年六月刊の眼科一四巻六号の「未熟児網膜症の臨床上の問題点」の中で、大島健司(当時九大眼科講師)は、本症の光凝固治療に触れ、「光凝固の時機を逸することを懸念して、自然治癒の可能性のあるものまで、本法を実施するということも起こりかねない、この点、とくに注意しなければならない。」としたうえ、最後に治療効果は確認されているとしつつも、「すでにこのような眼の管理の行なわれているところもあるが、一般にはまだまだ少なく」と述べている。

昭和四七年六月刊の小児科臨床二五巻六号の「未熟児網膜症と酸素療法―小児科医の立場から―」と題する論文の中で奥山和男らは光凝固による治療についてふれているが、論題の示すごとくその主題は酸素療法にあり、光凝固に関する部分はその記述内容からもうかがわれるように奥山ら自身の臨床経験を述べたものではなく永田医師らの昭和四三年及び同四五年の研究報告論文を引用して同医師らの見解・考え方を紹介したに過ぎず有効性、安全性の評価に値するものではない。

昭和四七年七月刊の臨床眼科二六巻七号の「兵庫県立こども病院における未熟児の眼科的管理」の中で、田淵昭雄らは光凝固による本症治療の症例報告を行っているが、「光凝固による網膜の組織学的変化が著しいことから、こういった網膜の器質的変化をきたさない治療をさらに検討する必要がある。」ことと、光凝固施行時期に関し、他の研究者らとは異なる活動期Ⅱ期後期説を提唱しており、このことは光凝固法が、その最も重要な施行時期について研究者らの間においてさえ定説がなく、研究段階の域を脱していないことを示している。

昭和四七年三月刊の臨床眼科二六巻三号の「未熟児網膜症の検索(Ⅲ)」の中で、山下由紀子(東北大眼科)は主に本症の冷凍療法についての研究報告を行っているが、「本症の病変部には、光を吸収しにくい部分があるために、光凝固の場合には、病変部を数多く焼灼しなければならないが、冷凍手術ではアイスボールが病巣部を含んでしまうので、手術侵襲は完全となろう。このことが、両術式の根本的差異になるものと思われるが、光凝固でも数個の凝固点のみで有効ということになれば、この理論は訂正を要する。両者ともほぼ同様の効果を得られるとすれば、より安価な冷凍手術の方が、実地医家にとっても施行しやすい方法かと思われる。」と述べている。

以上の考察によって理解されるように、昭和四七年中の各研究者らの研究報告によっても光凝固法についての定説をみるにいたっていず、依然として研究段階にあり学問的水準段階にも達していないことを示しているといってよいであろう。

(5) 昭和四八年~同四九年

昭和四八年二月刊の眼科臨床医報六七巻二号で新城歌子は、昭和四七年九月一〇日開催の鹿児島・大分・宮崎合同眼科集談会で「未熟児網膜症発症について」と題する研究報告を発表しているが、光凝固を含め本症の治療については全く触れていない。

昭和四八年七月刊の眼科臨床医報六七巻七号で飯島幸雄らは「国立習志野病院の未熟児網膜症およびその治療経験」と題する研究報告を行っている。その中で、同病院で昭和四七年中に行った三例の光凝固・冷凍凝固施行結果について一例無効、一例オーエンス三度の瘢痕を残す、一例経過観察中と述べているが、その評価については一言も触れていない。

昭和四八年一二月刊の麻酔二五巻九号で大阪北逓病院眼科の浅山亮二らは「光凝固による未熟児網膜症の治験例」と題し、昭和四四年三月より同四八年まで本症六例に対し光凝固を試みた治験例の報告を行っており、「オーエンスⅠ期は自然治癒もありうるので、経過観察期とし、進行が認められた時には、その経過が極めて速い例には直ちに光凝固を実施すべきであり、四期にいたれば光凝固も無効であることがわかった。進行がみとめられる時には、経過観察は最低週二回は必要と考えられる」と述べた。

昭和四八年一〇月刊の日本眼科紀要二四巻一〇号(九州眼科学会九州地区眼科講習会特集)で大島健司らは「最近三年間<昭和四五年~同四七年>の九大および国立福岡中央病院未熟児室の管理に対する眼科医の参加と未熟児網膜症の発生について」を発表しているが、「討論」の部において国立大村病院眼科の本多繁昭は「自然治癒の可能性は極めて高いのでありなるべく注意深く観察して自然治癒するものに凝固を加えることはさけたい」と慎重論を述べ、さらに「凝固に踏切るときの基準になるような病的所見があればご教示下さい」との質問からも窺われるように、国立病院眼科医においてさえかくのごとき知見であり、確立された診断・治療基準が全く示されていなかったものである。

昭和四八年九月刊の「小児診断治療の指針」で蒲生逸夫(大阪大学教授)は本症の治療につき「薬物療法としては、副腎皮質ホルモン剤、ACTH、手術療法としては光凝固法、凍結手術法などが行われている。」と述べているが、有効・無効については全く触れていず、いわば受け売り的な記述にとどまっているにすぎないもので実証的裏付けは皆無である。

昭和四八年一二月刊の「臨床新生児学講座」で新生児学の権威者島田信宏(北里大学助教授)は、本症に触れ、「早期に眼底所見からの未熟児網膜症を発見して、副腎皮質ホルモンによる治療、あるいは光凝固による治療で最近ではようやく失明から未熟児を守ることが出来るようになったので、私達も出来るだけ早期発見につとめなくてはならない。」と述べ、今後積極的に対拠していかなければならない問題として把握している姿勢がうかがわれ、このことは実地医療として未だ定着していないことを示している。

昭和四八年八月刊の「あすへの眼科展望」で坂上英(京大助教授)もまた、本症に対する光凝固法に触れているが、永田らの追試報告にとどまる記述であり、「従来適確な治療法を欠いていた未熟児網膜症の治療に大きな光明をもたらしたもので、今後さらにその発展が望まれる領域である」と抽象的記述にとどまっており、実証的データーによる有効性の確認的報告ではない。また、植村恭夫は右と同じ文献に「19小児眼科学最近の進歩」と題する論文を発表し、その中で本症の治療に触れ、「網膜症の治療に光凝固が登場して以来、治療の適応や、光凝固自体の未熟網膜に与える影響をめぐって論議があるのは、網膜症の臨床経過の多様と自然治癒の高率なことから当然なことである。光凝固の網膜への影響もいまだ長期の観察例が少なく、こどもが成長するにつれ、どのような影響がでてくるのかもいまだ十分なデータを得るに至っていない。……しかし、実際に網膜症を多数扱ってみると、自然治癒するのか、あるいは進行するのかの判断がつきがたいものがある。たとえば、前述の大島の述べた治療の時期とするⅢ期の眼底所見を示すものでも全く痕跡を残さず自然に治癒する症例もある。これと反対に、活動期病変が停止あるいは軽快するかにみえて、突如として活動性となり急速に網膜剥離にと進む例がある<まれには、発症後二~三日にて急激に剥離にと進む例がある>。このような例に遭遇すると、もし、長期間の観察で光凝固による障害がないことが明らかになったら、このような症例には、早期に光凝固や冷凍凝固を行った方が最悪の事態はさけられると思う。」と述べており、右指摘の点からも窺われるように、光凝固の安全性(副作用の有無)はいまだ確認されておらず、したがって学界の定説にもなっていず、研究段階にあり一般的治療法の域に達していないことを示唆するものと評価できるのである。

昭和四九年五月刊の眼科一六巻五号で植村恭夫らは、「著者らは、過去八年間にわたり未熟児の眼管理を行ってきたが、未熟児網膜症の発病、経過、眼底所見は様々であり、臨床経過の完全な分類を作ることは、至難といわざるを得ない。……可逆性、不可逆性の問題、光凝固、冷凍凝固の適応などの問題、予後の問題、さらに合併症、habilitationまでを含めた一貫した臨床経過、分類を作ることが必要となってきた。」とし、さらに「時には、急激に周辺部より後極に向かって波状または円弧状の扁平剥離がおこる例がある。これは発症して二~三日でこの状態に至るものがあり、光凝固に難治なことが多い。本症の経過は前述の如く個人差が強く、Ⅱ期において自然緩解するかにみえたものが突如として増悪する例もあるし、逆に剥離が予想される病変の強さを示しても、中途より軽快し治癒する例もある。また、稀ではあるが、発病して二~三日で剥離がはじまるという急激な増悪例もあり、本症を多数経験すればする程その臨床経過の多様に驚く。このような多様な状態をみていると、治療効果の判定にも難しさがあることがわかる。この臨床経過の多様性という点が網膜症の一つの特徴ともいえる。」と述べている。

さらに、昭和四九年九月刊の産科と婦人科四一巻九号で、秋山明基(横浜市大眼科)は、本症の治療と題する論文を発表し、その中で「山下らは光凝固による瘢痕の成長しつつある眼球に与える影響を考慮して最少範囲にとどめているといっているが、著者らもそれに同意見でまず最小限度の凝固を行ない、さらに経過により必要とあれば追加手術を行なっている、このことの是非については、今後の遠隔成積、病理学的検索等の結果をまちたい」としており、また普及の前提として「植村らのいうRush―Typeというか、発症数日にして滲出性変化をおこして網膜剥離へ進む型もあり、それこそ毎日眼底をみていても光凝固の時期を失う場合もあり得るので、光凝固装置の普及も重要だが、眼底が見れて凝固装置をつかいこなせる眼科医の大量養成も大切である。」と述べている。

また、植村も右「産科と婦人科四一巻九号」で「未熟児網膜症をめぐって」と題する論文を発表し、その中で「光凝固法の出現前に、著者らの眼科的検査の結果によると、不可逆性変化をおこしたもの三%であり、失明に至ったものは一%である。すなわち、光凝固法の適応例は極めて僅かなものであり、大部分のものは可逆性であることは常に念頭におき、光凝固が過度に用いられることを戒めるものである。さらに光凝固法がincidious typeに奏効してもRush typeに奏効するかは、著者が疑問に感じている点である。」と述べ、光凝固万能主義に警告を与えている。

また、昭和四九年一〇月刊の小児外科・内科六巻九・一〇号において、本症の権威者の一人である馬嶋昭生(名古屋市大眼科)は本法施行の困難性と有効性に触れ、「施行上の重要な点は、前述のごとく七五~八〇%は自然寛解があるので、症例の選択、時期の決定、過不足なく行う技術を修得することである。また、眼底が透見できた時にはすでにステージⅡになっているラッシュ・タイプの症例では、数回に及ぶ光凝固法によっても進行を止め得ないで失明に至る場合もあるので、本法によって一〇〇%失明を防止できると考えるのは誤りである。」と述べている。

このように、昭和四八年中に刊行された文献をみる限り、光凝固法について楽観的ムードがみられなくはない。しかし、その多くは実証的な根拠を欠いた文献的記述に過ぎない点を看過してはならず、昭和四九年に至り、本症の研究が徐々に進むにつれ、その臨床経過の多様であることが次第に明らかにされるに及んで、光凝固にも自ら限界のあることが指摘され、やがて混迷期を迎えることになった。

(6) 昭和五〇年以降現在に至るまで

まず、昭和五〇年一月刊の産婦人科治療三〇巻一号「未熟児網膜症」で永田誠医師は「この病気は自然治癒傾向の強いものであるから軽症例に対して不必要な治療的侵襲を加えることは厳に戒むべきである。……勿論光凝固や冷凍凝固ですべての未熟児網膜症が治癒するわけではなく、中には極めて急速に進行して網膜剥離を起こし、光凝固を行っても無効な場合もあり得る。」としているほか、再び適期に関する問題点の指摘を行っている。

昭和五〇年一月刊の眼科臨床医報六九巻一号「未熟児網膜症に対する光凝固術例」と題する論文で、瀬戸川朝一ら(鳥取大眼科)は昭和四五年三月から昭和四九年六月までの間に試みた五例の光凝固施行結果を報告し、著者独自の臨床分類を示している。

昭和五〇年三月刊の日本眼科紀要二六巻三号「診断と治療の実際」と題する論文で鶴岡祥彦(天理よろず病院眼科――永田医師の部下)は、光凝固による不成功例をいくつか経験していると述べたあと、この時期に至ってようやく「……現在では治療を念頭においた最も合理的な分類についての統一見解が出されることがのぞましく、現在その作業が進行中と聞いているので近い将来発表されることと思う」と述べ、さらに、その中で、Ⅱ型の難治性にふれ「Ⅱ型の網膜症は適期判断になお問題があり治療方法もまだ決定的とはいえない」とし、しかし失明防止は可能であると考えるとしつつも、「その診断治療にはなお多くの問題が残されており、その解決は今後も努力を続けなければならないと考える」と述べている。

昭和五〇年九月刊の「眼科手術の手ほどき」(眼科医の成書)で三井幸彦は本症に対する光凝固の適応に触れているが、「もし試みるなら」との表現にみられるように積極的に評価していないことが理解される。

一方、講習会等による普及の情況をみるに、厚生省特別研究班の研究報告後の昭和五〇年五月新潟市において未熟児網膜症に関する眼科講習会が開かれ、その際、右研究班の主任植村恭夫がその研究結果を中心に診断・治療の問題点について講演している情況にあった。

昭和五一年一月刊の日本眼科学会雑誌八〇巻一号「未熟児網膜症第Ⅱ型(激症型)の初期像及び臨床経過について」で森実秀子(国立小児病院眼科)は、「眼底検査が酸素療法のガイドラインとして果たす役割はすでに過去の定説となり現在は如何にして正確に第Ⅱ型の初期像の特徴をとらえ、治療開始時期を選定すべきかということが今後の研究課題であると考える。」と述べている。

昭和五一年一月刊の臨床眼科三〇巻一号「未熟児網膜症に対する片眼凝固例の臨床経過について」で馬嶋昭生らは、Ⅰ型につき一種のコントロール・スタディと目される片眼凝固の臨床試験の結果を報告しているが、八三・八パーセントに有意差を認めなかったとしている。

以上の考察からうかがわれるように、本症に対する光凝固法は、いよいよ困難な問題点を抱え、これが解明のための研究段階に再び突入した感が深く、熟練した眼科医の養成問題を含め、本法の普及をめぐり大きなジレンマに悩まされているのが現状であろう。

(三) 冷凍凝固法の登場とその評価

山下由紀子は、昭和四七年三月刊の臨床眼科二六巻三号において、はっきり「臨床実験―未熟児網膜症の検索(Ⅲ)―未熟児網膜症の冷凍療法について」と題し報告しているごとく、永田の光凝固同様、この文献的発表は研究者の追試の端緒を提供したに止まり、決して治療法の確立を意味するものでないことは言うまでもない。

冷凍凝固法は、右のごく実験的報告として登場していまだ日も浅く、原告ら出生時において本法が治療法として確立していたとは到底いえない。

ちなみに、馬嶋昭生は日本新生児学会の雑誌一二巻一号(昭和五一年三月刊)の「未熟児網膜症の発症機転と臨床」の中で、「冷凍凝固法は、治療の目的としては光凝固法と同じと考えてよいが、装置が安価な代りに凝固の強さ、部位、大きさを正確にコントロールするという点では光凝固法に劣ると考えている人が多い。筆者も同じ意見で、光凝固法を第一の選択とし、無効な特殊症例に対してのみ冷凍凝固法を施行している。最後に、光凝固法などの治療によっても、失明から救い得ない症例もあり、とくにⅡ型では、われわれ眼科医の必死の努力によっても失明に至る症例が多いことを知っていただき、未熟児出生の防止こそ本症の根本的な対策であることを強調したい。」とその限界を述べている。

また、ブリテッシュ・コロンビア大学の眼科小児科の前助教授であるアンドリュウ・Q・マコーミックは最近刊行した未熟児網膜症の著書の中で冷凍凝固施行症例に触れ、「本研究では対称的な病気を持つ一一名の小児の一方の眼のみを、増殖しつつある末梢血管のある鞏膜と隣接する血管のない網膜を通して寒冷凝固により処置した。これら小児の一名は両眼失明した。一名は追跡不能、残りの九名では、処置した方の眼に脈絡網膜瘢痕のある他は二眼とも臨床的に同じであった。この処置法が害を付加しなかったとはいえ、何も益を生じなかったことも又同じように明らかである。」と述べ、冷凍凝固の有効性を否定している。

(四) 光凝固法・冷凍凝固法の評価

(1) 治療法確定までの医学段階

新薬あるいは新しい治療法が開発された場合、これを直ちに一般的に応用することは極めて危険であり、これが広く応用されその時代の一般的な医療水準に達するまでには、①治験的段階②学問的水準段階③具体的可能性ある医療水準の三段階に大別される。

① 治験的段階……ある疾患の治療について新知見が発表されたあと、関心ある研究者によってこれを試みようという動きがあり、追試がなされ、何年間かにわたり発表がなされ、学会の討議事項となる段階である。この段階で重要なことは、有効性と安全性確認のための対照試験(コントロール・スタディ)であり、自然治癒との比較を含め追跡検討し、慎重な試行錯誤の過程を踏まねばならぬことである。

② 学問的水準段階……①の治験的段階は、その研究が集積するにつれ徐々に集約化されていく過程を辿る。いかなる研究の成果でも三年から五年のうちには必ず反論が生ずるものとされるが、それによってひとつの学問としての実態を備え、ある程度のコンセンサスができあがる。これが学問的水準の段階である。

たとえば、その研究者の所属する学会での宿題報告が定まり、一定の期間を置いて報告すべきことが求められる。そこでは、それまでの対象となった研究の過程を広くたどり、より深化した検討を加えながら、診断基準、治療基準が形成される。最初の発表者や新たに研究の対象として追試を始めた各研究者の、得られる症例を手掛かりとして横の連携もなく行っていたそれまでの研究が広がりを持ちはじめ、まちまちであった考え方をつなぎ、厚みを増して集積し、体系づけられることになる。この時点でもまだ研究は終息するのではなく、一応示された診断基準・治療基準による具体的適応のための検討、またその治療法の実施にあたっての副作用ないしは障害の指摘と考慮すべき問題点が投げかけられる。ここで実地医療に携わる臨床医は、示された診断・治療基準の概念を把握し、知識として理解を始めるのである。治験的段階では単なるひとつの知見に過ぎなかったものが成熟し、評価として登場するからである。しかし、この段階では、さらに教育・訓練という場が必要である。文献は次々と発表されるが、治験的段階の論文として啓蒙的な性質を帯びていたものが、学問的水準段階ではそれが修正され、集約された意味で教育的なものとして解釈され登場する。このような考え方と指示の下で教育・訓練・物的設備の段階的な配慮が行われるのである。したがって、この学問的水準によって直ちに具体的可能性のある治療が開始されるのはまだ一部の先進的な大学・研究所・病院など限定された範囲においてである。そして増加してきた研究者を中心に臨床医の数があちこちに増え、医療機関に対して人的設備、物的設備を充実させるための予算要求の始まるのもこのころである。医療機器・薬品の製造も一段と活発化してくる段階である。

③ 具体的可能性ある水準……②の学問的水準が一応の形成をみたあと、前述のような臨床医にとっての具体的可能性のある医療環境の整備がなされ、知識の普及、人的・物的措置が徐々に講じられるわけで、具体的には、学会としての講習が行われたり、医療機関では財政上の段階的な配慮がなされる。また、病院などでは限られた予算の枠の中で各診療科から出される要求に優先順位をつけ、年次的に整備してゆこうとし、医療行政の立場でも全体的な視野のなかでセンター病院の新設や各医療機関における連携体制を図っていくようになるものなのである。

(2) 光凝固法開発研究の欠陥

① サンプル実験による早急な断定

光凝固法は、成人に対しても慎重に行なわれるべきである危険性をもつ療法であり、未熟児眼底に行なっても安全である保証はなかったにもかかわらず、永田誠は、前臨床実験としての動物実験を験ることなく、直接人体に適用したもので、いわば人体実験であり、治療の名に価するものではなかった。また、昭和五一年の宿題報告の時点でも、右永田が活動期の最初から観察して光凝固をしたのは一二例にすぎず、サンプル実験程度の症例数であって、到底失明防止の有効性を判定できるものではなかった。ところが、右永田は昭和四五年五月に自分以外の症例報告が一片もない時点において、失明防止の有効性を断定し、治療法の全国的普及を呼びかけたものであり、医療確立の常道的プロセスを逸脱した研究発表であり、昭和五一年一一月、永田自身光凝固法の有効性判断および研究方法の欠陥を認める論文を発表せざるを得なかった(「日本眼科学会雑誌」<宿題報告>第八〇巻一一号)。

② データの客観性における欠陥

光凝固法に関する実験や追試において、当初活動期の推移や光凝固適応としたステージの観察判定が客観性を欠き、客観データによる比較検討がなされていなかった。本症のすべてにつき、予断をもたない第三者的な観察者を確保することが理想であっても眼科専門医の数も限られ事実上不可能であるが、眼底写真による比較ができれば、観察判定の客観性が担保されるところ、カラー写真による全体的眼底所見が公表されたのは昭和四九年以降であり、それまでは、光凝固法実験を検討すること自体が困難であった。

③ 比較テストの欠落

光凝固法に関する研究において、科学性を担保するためにもっとも初歩的なものというべき比較実験が、昭和四七年から始められた馬嶋の片眼凝固までは、永田はもちろん、他の追試者によっても行なわれておらず、科学的根拠を全く欠いていた。馬嶋の研究までは、「先におこったから原因だ。あとでおこつたから結果だ。」という単純な推論に従う、きわめて非科学的な研究であった。

(3) 光凝固法の科学的評価およびその限界

① 光凝固法には、前記のような科学的欠陥があり、永田が本症の治療法として光凝固法が確立したと断定した昭和四七年にはもちろん、現在においても、治療法として確立したものといえないことは明らかである。

更に、本症(Ⅰ型)は自然治癒率が高く、光凝固後に失明に至らなかったものも、元来自然治療したはずで、光凝固は単にその治療過程を短縮したにとどまり、有効性の乏しい無用の手術であることが判明した。また光凝固は未熟児網膜を一部組織破壊するものであり、光凝固により網膜・脈絡膜・強膜の相対的位置関係が固定化することにより将来如何なる影響があるのかが不明であることを考えると、光凝固法施術は謙抑的であるべきであるといわねばならない。

② 光凝固法が本症Ⅱ型のように急速に進む症例に有効であるかどうかは、今日では疑問視され、問題は未解決である。本件当時永田誠は、本症Ⅱ型を知らぬままに、光凝固法を提唱していたため、その検査間隔、光凝固基準ではⅡ型に対応できず、無効例が続出した。そもそも本件当時は、Ⅱ型の病型の確定はされず光凝固の適期の見解も統一されておらず、またその後の研究でも、自然治癒が望めないⅡ型に光凝固を適用せざるを得ないとしても、Ⅱ型では透光体の混濁が多くみられること、黄斑部を除いた部位を広範にわたり焼いてしまうため網膜が機能しなくなるおそれがあること等の問題点があり、有効性の実証が非常に難しく、研究班が研究を開始した段階にとどまるものである。

4 眼底検査について

(一) 眼底検査の意義・目的とその位置づけ

眼底検査は、本症発見の一つの手段にとどまり、本症の臨床経過や原因、その予防法、治療法等の研究のために行うのであればともかく、そうでない限り、それ自体ではなんら意味を有しない。実際の臨床面で本症の予防、治療に対する役割という観点からみた場合、本症に対する有効・安全な予防法・治療法があり、これとの結びつきが存在していてこそ意義を有するものである。

(1) まず、予防法についてみるに、昭和四二年二月刊の臨床眼科二一巻二号の「未熟児網膜症の臨床的研究」の中で、植村恭夫らは、「未熟児眼底を呈し、酸素療法が必要とされる場合には、定期的眼底検査にて異常ない限り必要なしと考えられる迄酸素療法を継続し、眼底所見を確めつつ減圧をはじめ、もし、この際、発症の兆候があれば、再び、酸素を従来の濃度にあげて、眼底所見の改善をまって、濃度をさげ、中止する。」と述べ、眼底検査と結びついた予防法が存在するかのごとき記述がみられるが、単に外国での報告をそのまま述べたに過ぎないものである。現在では、血液中酸素分圧値と網膜血管径との間には相関関係が認められないことおよび本症発生が問題となりがちないわゆる極小未熟児においてはヘイジイ・メデアの存在のために眼底検査を満足に行いえないことから、眼底検査は本症の予防法としては役立たないとされ、評価されるに至っていないし、他に眼底検査と結びついた予防法を論ずる見解は見当らない。

(2) つぎに、治療法としての薬物療法については、いずれもその有効性は確認されておらず、むしろ昭和四五年当時すでに自然治癒との間に有意差を見出しがたいことが指摘され、以来その有効性を積極的に確認した報告はなく、現在においては否定的に解されている。

(3) また、治療法としての冷凍凝固法、光凝固法については、本件出生当時その有効性、安全性は確認されるに至っておらず、いまだ研究ないし追試段階にあり実地医療としての地位を有していなかったものである。

以上、要するに、眼底検査は本件当時これと結びつく有効・安全な予防法ないし治療法は確立されておらず、それ故に臨床的には殆ど意義を有するに至っていなかったといえよう。

(二) 本件当時の眼底検査の普及度

大学病院において、治療との結びつきを念頭におきながら定期的眼底検査が始められたのは、昭和四八年以降、眼科、産科、小児科の緊密な協力態勢の確立という組織作りが緒についたのは、昭和四九年後半から昭和五〇年以降であり、眼科医師の不足、未熟児眼底検査の技術的困難性等の事情もあって、本件当時は本症治療において、眼底検査が普及していた状態にはなかった。

八 被告の主張(二)……被告の注意義務懈怠の不存在について

被告および担当医師である伊吹医師、野呂医師は、本件当時において大学付属病院に要求される医療水準に従い、次のとおり最善の注意を尽して原告香織の診療にあたったもので、被告に注意義務違反はなく、同原告が失明するに至ったのは、同原告の症状が本症Ⅱ型で、硝子体の混濁、出血という特異な要因が重なったもので、不可抗力であった。

1 原告香織の未熟性

原告香織は、在胎三一週余、生下時体重一〇〇〇グラム(入院時九七〇グラム)という極小未熟児であり、成熟度は三〇点満点の九ないし一〇点にすぎず、出生後四〇日頃から貧血も見られた。本症発症の原因を酸素投与と直結させる考え方は否定され、網膜の未熟性こそ決定的要因であることが明らかとなっている。したがって、同原告の未熟性が極めて高いため、被告および担当医師が酸素管理を徹底したとしても、本症の発症を防止することはできなかった。

2 酸素投与

(一) 原告香織には、チアノーゼ、多呼吸、不規則呼吸が見られ、特に呼吸中枢、肺の未熟性を示す多呼吸、不規則呼吸はチアノーゼ消失後も見られた。伊吹医師、野呂医師は、右症状よび全身状態から低酸素症による脳神経障害を危惧し、同原告に対する酸素投与を決定し、四二日間の投与を続けた。そして両医師が、酸素投与を打切った際も、多呼吸等が完全に解消されていなかったが、その他の身体的成育状況から、かなり思い切った措置として行ったもので、打切後に同原告の呼吸数が増加していることを考えると、むしろ酸素投与を継続してもよかったともいえる。未熟児にチアノーゼが見られなくとも低酸素状態の場合もあり、また一旦低酸素状態に陥ってとりかえしのつかない脳障害を惹起する危険性を考えれば、右両医師の酸素投与決定、継続の措置は全く適切であった。

(二) 本件当時には、酸素投与モニターとしてのPaO2値測定は、未だ一般化していなかったうえ、本件後の前記山内敏郎の研究によりPaO2値の断続的測定は、PaO2値の変化を把握できず酸素モニターとして効果のないことが明らかとなったもので、この点に関する原告らの主張は前提を欠く。また、被告は、入院時から昭和四八年六月一八日にかけて三回PaO2値を測定し、保育器内酸素濃度を四〇パーセントとした時にも危険ラインといわれるPaO2値一五〇ミリメートル水銀柱(mmHg……以下、「ミリ」と表わす。)以下であることを確認している。

伊吹医師、野呂医師は、別表記載のとおりに保育器内酸素濃度を四〇パーセント以下(ほとんど三〇パーセント以下)に保っているが、右程度の酸素投与で、PaO2値が一〇〇ミリを超えることはない。

したがって、被告の酸素投与は、全く適切なものであった。

3 本件症例の特異性と光凝固法

本件症例はⅡ型ないしそれに近い急激増悪例であるが、更に予測できない透光体の混濁、大出血という異変が加わったものであり、眼底検査はもちろん光凝固も不可能であった。被告は、関西では最も早く永田の追試に踏み切った被告本院の眼科と密接な交流を行ない、いつでも光凝固が可能な態勢をとっていたが、本件当時はⅡ型の病型の確定およびⅡ型の治療基準も統一されていなかったから本院に転院させたとしても失明を防止できたか不明であるし、そもそも原告香織の眼底が透見できなかったのであるから、光凝固をすることは不可能であった。

4 本件症例と眼底検査

被告が、原告香織に対して行なった眼底検査は、その時期、回数、検査者の経験、能力の点でも最高に近いものであった。原告香織が失明に至ったのは、その症状(Ⅱ型および透光体混濁)の特異性によるものであり、結果を回避する措置が存在しなかった。

(被告の主張に対する反論)

一 被告は原告香織の症例が本症Ⅱ型で透見不能で、光凝固が実施不能であると主張するが、斎藤医師は昭和四八年八月一四日から同月二一日の間眼底検査を行なっていないうえ、光凝固の経験がないのであるから、Ⅱ型であると断定し、光凝固不能であると判断することはできない。

二 光凝固の有効性は、本件以降も確認、支持されている。光凝固による瘢痕の影響、Ⅱ型・混合型の本症に対し有効か等の疑問点が出されたが、現在では、Ⅰ型については光凝固の安全性が確認されるまでは、できるだけ謙抑的に実施し、Ⅱ型・混合型については、光凝固をせざるを得ないというのが臨床医学界の認識である。

第三証拠《省略》

理由

一  次の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

1  請求原因一の事実。

2  同二のうち、原告香織が原告ら主張の日時頃に被告病院で出生したこと、生下体重が原告の主張のとおりである未熟児であったこと、被告と原告香織、同豊實、同末子との間で本件契約が締結されたとの事実。

3  同三の事実。

4  同四のうち、本症の発生原因が未熟児に投与された過剰な酸素によることが証明済みで動かし難い事実であることを除くその余の事実。

二  本症の臨床経過

《証拠省略》によると、次の事実が認められ、これに反する証拠はない。

1  本症の起始および進行は多種多様で個体差があるが、病変が眼底において始まるのは、普通生後二週ないし三か月であり、多くは生後三ないし八週に発症し、まれには六か月という例もある。一般的には在胎週数の長いものほど早く、短いものほど遅く発症する傾向がみられ、活動期の期間は二か月より一年以上にわたるものもある。本症は例外を除き、酸素療法を受けた低出生体重児に発症することが多く、その場合、酸素療法を行なっているうちに発症することはまれで、普通は酸素療法を中止してから発症する。また、本症の多くは両眼性であるが、その程度は必ずしも同程度の障害を起すとは限らない。

本症の臨床経過の分類については、過去に後記(2)のオーエンスの分類のほか様々の分類が試みられたが、現在わが国の臨床医学界では、概ね厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班報告の分類が採用されており、その分類内容は、次のとおりである。

本症を活動期の臨床経過、予後の点よりⅠ型、Ⅱ型に大別する。

Ⅰ型は、主として耳側周辺に増殖性変化を起こし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強いもので、次の経過をたどる。

1期(血管新生期)周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないが、軽度の血管の迂曲怒張を認める。

2期(境界線形成期)周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の迂曲怒張を認める。

3期(硝子体内滲出と増殖期)硝子体内へ滲出と血管およびその支持組識の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。

4期(網膜剥離期)明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から、全周剥離まで範囲にかかわらず、明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

Ⅱ型とは、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極よりに耳側のみならず、鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、透光体の混濁のため無血帯が不明瞭なことも多い。Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い、比較的速い経過で網膜剥離を起こすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型のものをいう。最初の兆候からして、Ⅰ型と異なり、後極部血管の迂曲怒張、境界線領域は黄斑部よりのいわゆるⅡ型圏にあり、血管の尖端領域は環状走行に近く、出血、滲出も著明であり、螢光色素のleak(漏出)も、もっとも著しい。

本症の活動性病変が消失した時期で不可逆性変化を瘢痕として残した時期を瘢痕期とし、瘢痕の状態を障害の程度と併せて4段階に分ける。

1度 眼底後極部には著変がなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化(色素沈着、網脈絡膜萎縮など)のみられるもので、視力は正常のものが大部分である。

2度 牽引乳頭を示すもので、網膜血管の耳側への牽引、黄斑部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す。黄斑部が健全な場合は視力は良好である。しかし、黄斑部に病変が及んでいる場合は種々の程度の視力障害を示すが、日常生活は視覚を利用して行うことが可能である。

3度 網膜襞形成を示すもので鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、これに血管がとりこまれ、襞を形成し周辺に向って走り、周辺部の白色組織塊につながる。視力は〇・一以下で、弱視または盲教育の対象となる。

4度 水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領よりみられるもので、視力障害はもっとも高度であり、盲教育の対象となる。

2  なお、前示厚生省研究班報告による分類がなされるまでは、オーエンスの分類(昭和三〇年確立)が臨床的に用いられ、本件当時もこの分類が採用されていたが、オーエンスは、本症の臨床経過を次の三期に大別し、初期変化は常に未熟児の生後一か月に始まり、五か月頃までには瘢痕期に移行するとした。

(1)  活動期 生後四ないし五か月ころまでⅠ期(血管期)、Ⅱ期(網膜期)、Ⅲ期(初期増殖期)、Ⅳ期(中等度増殖期)、Ⅴ期(高度増殖期)に分けられる。最も早期に現われる変化は、網膜血管の迂曲怒張が特徴的であり、網膜周辺浮腫、血管新生がみられる。ついで硝子体混濁がはじまり、周辺網膜に限局性灰白色の隆起が現われ、出血もみられる。Ⅲ期に入ると限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起こり、血管新生の成長が増殖性網膜炎の形で硝子体内へ突出し、周辺網膜に限局性の網膜剥離を起こす。更にⅣ期、Ⅴ期と進み、高度増殖期は、本症の最も活動的な時期で、網膜全剥離を起こしたり、時には眼内に大量の出血を生じ硝子体腔をみたすものもある。

(2)  回復期

(3)  瘢痕期 程度に応じてⅤ度に分ける。

Ⅰ度 眼底蒼白、血管狭細、軽度の色素沈着を示す小変化。

Ⅱ度(乳頭変形) 乳頭は、しばしば垂直方向に延長し、あるいは腎臓型を示したり、網膜血管の耳側への偏位を認める。蒼白のこともある。

Ⅲ度 網膜の皺襞形成。

Ⅳ度(不完全水晶体後部組織塊) 網膜剥離、水晶体後部に組織塊形成。

Ⅴ度(完全水晶体後部組織塊) 水晶体後方全体が網膜を含む線維組織で充満。

三  診療における医師の注意義務の判断基準

医療契約にもとづく医師の具体的診療債務は、患者の具体的症状に対応して、専門的な医学知識にもとづいて医療行為(検査、診断、治療行為など)を選択、決定し、また、その選択された医療行為を実施するものであるから、医療契約上の医師の債務不履行をいうためには、その患者の具体的症状と医師がその時に選択すべきであった医療行為が特定され、医師のなした医療行為の選択、実施について、医師に過失があったことが必要であるが、医師は、大学等の研究養成機関を終了後、国家資格試験を経て、人の生命および身体の健康の管理を目的とする医療行為に従事するものであるから、その業務の性格に照らし、専門的な医学知識にもとづき、患者の生命および身体の健康に対する危険防止のため、最善を尽すべき注意義務を負っているのであり、これを怠り、患者の生命もしくは身体を害する結果を生ぜしめたときは、過失ありとして右結果に対する債務不履行責任を負わなければならない。

ところで、医師が従うべき専門的な医学知識は、当該医療行為のなされた当時の一般的医学水準にもとづくものであることを必要とし、かつそれをもって足り、一般的医学水準とは、臨床医学界において、種々の医学的実験を経た後、合理性と安全性が是認、支持された医学理論にもとづくものを指すというべきで、日々発達を遂げているものであるが、一部の医学研究者による研究の結果、新たに発表された知識で、未だ臨床的に効果と安全性が確証されず、確実な知識として定着する段階に至っていないものは、医学界における仮説にとどまり、一般的医学水準に達するまでにはなお臨床面での検証に耐えることを要するものであるから、医師がこのような仮説に従って医療行為をしなかったからといって、これを当該医師の過失ということはできない。

また、わが国ではいわゆる専門医制度は存在しないが、近時の医学界は内科、外科、小児科、眼科等の各専門分野に分かれ、社会的に事実上の専門医制がとられているうえ、右各専門分野の中においても更に多くの専門分野に細分化される傾向にあり、細分化された各専門分野につき、多種多様かつ高度な研究成果が、次々に学界や医学雑誌を通じて発表されており、一般の医師がこれらのすべての情報を把握、吸収することが困難である現状を考慮するならば、医師が自ら医療行為をなす際に従うべき医学水準は、当該医師の専門分野およびこれに密接に関連する分野の水準をもって足り、自己の専門外の一般的医学水準に従うべきことまで要求されるものではないというべきである。

右のとおり、医師は、その置かれた当時の一般的医療水準に従って適切な医療行為をなすべき注意義務を負っているのであるが、もし自らが右医療行為をなすのに必要な施設を有しない場合には、直ちに患者もしくはその保護者に対し、右施設を有しないため適切な医療行為をなし得ない旨を告げて右施設を有する専門医を紹介もしくは転医させて右医療行為を受ける機会を与える義務があるものというべきであり、この義務を怠り、そのために適切な医療行為がとられていたならば、回避しえたであろう結果を、患者の生命もしくは身体に生ぜしめたときは、医師は、当該結果につき責任を負わなければならない。

また、医療行為は、医師の置かれている社会的、地理的その他の具体的環境、条件(大学医学部または医科大学付属病院か、国公立総合病院か、普通病院か、個人開業医の診療所かなど)によって人的・物的設備、組織の違いにもとづく差異があるので、診療債務の内容および医師に対して要求される注意義務の程度は、当該医師の専門分野およびこれに密接に関連する分野の水準的知識の他、右の諸条件をも総合して決定しなくてはならない。そして、大学医学部付属病院にあっては、わが国における現代医学の最高水準の人的・物的設備を備え、これにもとづき、診療にあたっては、同一分野の医師間のみならず各専門分野の医師間の密接な連絡協力体制のもとに一般医療水準に従った医療行為を的確に実施し、とりわけ複数の専門分野にまたがる診療については、各専門分野で是認される高度の水準に従った医療行為の実施が要求されるとともに、履行補助者としての各医師も、自分の専門分野以外の分野について、医学知識を得て研鑽を積む機会に恵まれているものであるから、他の条件の下で医療活動している医師より広範な関連分野について一般的医療水準に従った医学知識を要求されると言わなければならない。

しかし、医療行為は生体に対してなされるもので、対象に個体差があり、臨床医学的に病態が確定されていても典型例は少なく、さらに同一症状に対して考えられる病因は複数あり、かつ一つの疾病に対する治療方法も複数あるのが通例であるから、医師が診察、治療等の医療行為をするに際しては、時間的制約の中で断行していく必要のある医療行為の性質に照らすと、当該医師による裁量が働き、とりわけ、治療方法の選択については、患者の症状、年令、性別、治療方法の効果、患者に及ぼす侵襲の程度等を考慮したうえで、医師の裁量にもとづいて選択、決定されるべきであり、右選択、決定が一般医療水準に照らして医師の合理的裁量の範囲内にある場合には、当該医師の過失はないと言うべきである。

四  原告香織の本症発症時における本症に関する一般医療水準

被告病院における担当医師に注意義務懈怠があったかどうかを判断する前提として、本件当時(昭和四八年六月頃)の本症に関する病態の把握、発症、原因、治療方法等の医療水準を明らかにする必要があるので、本件当時に至るまでのわが国における本症に関する研究の経過について検討する。

1  本件当時までに眼科学会において発表された文献について

《証拠省略》によると、次の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(1)  昭和四〇年頃までは、わが国において本症の症例が少なく、研究者の関心も低かったため、本症に関する研究は少なかった。

昭和二四年熊本医科大学眼科教室三井幸彦外一名が、昭和三〇年徳島大学医学部眼科教室水川孝外二名が、昭和三六年鳥取大学医学部眼科教室松浦啓之が、それぞれ後水晶体線維増殖症として症例報告し、アメリカのテリー、オーエンス、パッツらの研究報告を紹介し、酸素投与に関係する疾患としているが、治療法については触れていない。

昭和三九年二月、弘前大学眼科の松本和夫外二名は、「臨床眼科」一三巻二号誌上の「水晶体後方線維増殖症の治療に就て」と題する論文において、それまで我が国では本症の治療報告がなかったが、臨床例二例に対し副腎皮質ホルモン剤、蛋白同化ホルモン剤による治療を試み良好な結果がえられたと報告している。

(2)  国立小児病院眼科植村恭夫医師外一名は、昭和四一年五月、「臨床眼科」二〇巻五号誌上の「未熟児の眼科的管理の必要性について」と題する論文において、「わが国において未熟児保育の発達に伴って水晶体後部線維増殖症(RLF)発症の危険が増加しているのに一般の関心が低い。しかし本症は視機能に障害を残すものであるから、小児科医、眼科医が、一体となって、活動期にあるうちから、早期発見、早期治療にのりだすべきであり、そのためには眼底検査による眼科管理が必要である。」と述べ、自験症例を挙げて眼底検査の方法を紹介し、本症を「未熟児網膜症」と呼ぶことを提唱し、更に本症の原因治療については「本症の成因については未解決であるが酸素補給の制限で発症が減少した。副腎皮質ホルモン、ACTH、蛋白同化ホルモン等の使用が有効であるとの報告があるが、自然寛解が多いため、どの程度有効なのか、また他に有効な治療法がないか、今後検討すべき問題である。」と述べている。

また、右植村恭夫医師は、同年「眼科臨床医報」六〇巻三号誌上「話題小児眼科」と題する論文において、同様に定期的眼底検査の必要性を強調し、同年一〇月「眼科」八巻一〇号誌上の「対談小児眼科について」と題する記事において、同内容の本症の病態の紹介、眼底検査の必要性を説き、本症の予防、治療方法として眼底所見をみながら酸素投与、ステロイド療法を試みていると述べている。

(3)  右植村恭夫、大阪市立小児保健センター科長湖崎克は、「小児眼科トピックス」(昭和四一年一月三〇日発行)において、本症がその八〇パーセントは未熟児にみられ、生後三ないし五週目から起こる疾患であり、病態としてオーエンスの分類を示し、原因として酸素過剰の他、貧血、気道感染等を挙げている。そして予防法として、未熟児貧血に対する適正な処置と、眼底検査をガイドとする酸素管理が大切であり、酸素濃度は四〇パーセントを限度として必要最小限度の量に制限することとし、治療法として活動期の可逆性のある時期に適当の酸素供給、ACTH、副腎皮質ホルモン剤投与で治療しうるが、瘢痕期になってからは、方法がないと述べている。

(4)  前記植村恭夫外一名は、昭和四二年二月、「臨床眼科」二一巻二号誌上の「未熟児網膜症の臨床的研究」と題する論文において、国立小児科病院で観察した本症の活動期症例一三例、瘢痕期症例四〇例について研究報告をし、「活動期Ⅰ期では八七・五パーセントが自然寛解した。活動期Ⅰ期では治療せずに看視のみを続け、Ⅱ期に進んでから副腎皮質ホルモン療法を行ったが、Ⅱ期では治療しても眼底周辺に瘢痕を残すようである。発症例は、一九〇〇グラム以下、ことに一五〇〇グラム以下の低体重児のものに多く見られる。呼吸器疾患のある未熟児にとっては酸素療法は不可欠であり、かつ適正な酸素補給を行っても本症は発症するものであり、その因子が不明で予防対策がたたない現段階では、定期的眼定検査が重要な意義をもつ。本症の発生予防、進行防止のため眼定所見を指標とした酸素療法の管理は必須のものと考える。」と述べている。

また、前記植村恭夫は、昭和四一年秋頃開催された第二〇回臨床眼科学会において、本症の活動期症例および瘢痕期症例を報告し、未熟児の眼科的管理の必要性を主張した。慶応大学坂上道夫は昭和四二年二月、「臨床眼科」二一巻二号の「印象記第二〇回臨床眼科学会」と題する記事において、右植村の主張を報告した。

(5)  天理病院眼科永田誠外三名は、昭和四三年四月、「臨床眼科」二二巻四号誌上の「未熟児網膜症の光凝固による治療」と題する論文において、本症未熟児二名に対し光凝固を行ったところ、頓挫的に病勢の中断された経験について報告し、「二症例は、いずれも酸素供給を中止したのち、次第にオーエンス活動期Ⅰ期よりⅡ期に進み、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起こり、血管新生の成長が硝子体内へ進出し始めて増殖性網膜炎の初期像をとってきた時点、すなわちⅢ期の始まったところで光凝固を行ない、これによって病勢は頓挫的に終熄し、その後増殖性網膜炎の進行は見られなくなった。光凝固を行なうことを決定した根拠は次のとおりである。網膜の滲出性隆起に伴う血管新生は、本症発症素因のある未熟な網膜血管末梢部に酸素供給期間中に起こった閉塞性変化の結果、酸素供給中止後に招来された網膜の強い低酸素状態に起因すると考えられるから、このような低酸素状態を持続する網膜組織の存在はさらに著明な血管新生の母体でありうる。また過剰な血管新生より硝子体中へ増殖する血管発芽は網膜硝子体出血の原因となり、その出血はさらに増殖性網膜炎の病態を悪化させるというEales氏病(若年性反復性網膜硝子体出血)と同様の悪循環に陥る可能性が存在する。したがって、このような低酸素状態を持続する病的な網膜を含めて過剰な新生血管を破壊することは、本症固有の病態進行による大きな瘢痕性変化を、光凝固による限局された網膜周辺部の瘢痕によっておきかえることができるのではないかと考えられる。但し、二症例の経験は従来無力であった本症重症例の治療に一つの可能性を示すということはできるが、われわれの判断と症例の選択が正しかったか否かは断定できず、今後の追試に待つ他ない。」と述べている。

また、前記永田誠は、同年一〇月、「眼科」一〇巻一〇号誌上の「未熟児網膜症の光凝固による治療の可能性について」と題する論文においても、前記光凝固治療を実施した二例について同旨の研究発表をした。

(6)  前記植村恭夫は、昭和四三年九月、「眼科」一〇巻九号誌上の「未熟児網膜症について」と題する論文において、国立小児病院未熟児室において本症活動期症例六例を観察したことを報告し、「本症は一五〇〇グラム以下の低体重児、在胎週数の短いものに発生頻度が高く、発症例の方が、非発症例より酸素投与期間が長期である。アメリカにおいては、酸素療法下の未熟児は動脈PO2測定によって監視されているが、これを行うと否とに拘らず眼底検査を行って発症に注意すべきである。」と述べている。

(7)  名古屋市立大学眼科助教授馬嶋昭生は、昭和四三年九月、「眼科」一〇巻九号誌上の「未熟児の眼科的追跡調査」と題する論文において、同大学小児科で未熟児管理をうけた小児四五名を眼科的に検査した結果本症が一〇例、網膜血管蛇行が一例発見されたとし、生下時体重、在胎期間、酸素供給期間との関係を考察した結果を発表した。

(8)  国立小児病院内科奥山和男外二名は、昭和四三年九月、「眼科」一〇巻九号誌上の「未熟児管理の現況」と題する論文において、未熟児に対する酸素療法について論じ、「呼吸障害によってチアノーゼを示すことが多いので、チアノーゼを示す未熟児には酸素投与が不可欠であるが、過剰投与は本症の原因となることは周知の事実であり、適切な酸素投与法を検討する必要がある。未熟児の動脈血のPO2を測定検査した結果、酸素を投与しない場合には五〇ないし八〇mmHg、酸素投与を受けているものの多くは八五mmHg以上であり一五〇mmHgを越えたものも見られ、呼吸障害を有するものあるいは在胎三二週以下のものは酸素を投与しても七〇ないし八〇mmHg以下のものが多かった。PO2五〇mmHgが生理的最低値と考えられ、一五〇mmHg以上になると本症発生の危険があるといわれている。未熟児に対して酸素を投与する場合には動脈血のPO2をめやすとすることが理想的であるが、動脈血の反復採取は極めて困難である。酸素療法にあたっては、保育器内の酸素濃度を頻回測定するとともに、ときどき酸素濃度を低下させて、チアノーゼが出現するかどうかを観察し、不必要な酸素を与えないように注意すべきである。」と述べている。

(9)  大阪小児保健センター内科竹内徹は、昭和四三年九月、「眼科」一〇巻九号誌上の「未熟児呼吸障害症候群の管理」と題する論文において、未熟児の呼吸障害症候群に対しては酸素療法が有効であるが、酸素投与が本症の発生に大いに関係する因子であるとして、酸素療法のあり方について、大阪小児保健センターで診療したIRD症例二二例のカルテを検討したうえで「酸素投与期間が短かいと脳性麻痺の発生が高いが本症の発生は殆んどなく、投与期間が長期にわたると脳性麻痺の発生が減少するが、本症の発生が増大することが認められる。酸素投与をしない未熟児にも本症の発生が見られ、本症の成因については不明なことが多いが、(1)酸素を呼吸障害がないにもかかわらずルーチンとして投与することは小さい未熟児においても避けるべきであり、(2)環境酸素濃度四〇パーセント以下というのは絶対的ではないが、(3)IRDのような場合にはPO2の測定が可能であれば、むしろ積極的に酸素濃度を上昇させることが大切である。」と述べている。

(10)  前記植村恭夫、同馬嶋昭生、同奥山和男、同竹内徹は、昭和四二年一一月一〇日、国立教育会館で、小児科医、眼科医を集めて開催されたパネルディスカッション(テーマ「未熟児の眼科的管理」)において、それぞれ前記(6)ないし(9)の内容を発表したが、これらは昭和四三年一〇月、「臨床眼科」二二巻一〇号誌上の「第二一回臨眼グループディスカッション小児眼科」と題する記事に掲載された。

(11)  関西医科大学眼科学教室教授塚原勇外三名は、昭和四四年一月、「臨床眼科」二三巻一号誌上の「未熟児の眼の管理」と題する論文において、昭和四二年三月から昭和四三年八月までの間に同大学病院未熟児室に収容された未熟児一三六例につき入院中は毎週一回の眼底検査をして観察した結果、七例に本症の発生を認めたとして症例報告をし、「七症例は、生後三四ないし六〇日、酸素投与中止後一〇ないし五〇日で発生し、一ないし六か月で自然治癒した。低体重児、胎生期間の短い児、酸素投与期間の長い児に発生率は高く、最高酸素濃度が四〇パーセントを越えない条件を守っても本症発生の可能性がある。本症の初期にはステロイドホルモン投与が有効とされているが、どれだけ確実な効果があるか疑問であり、治療より予防が大切である。」と述べている。

(12)  前記永田誠外一名は、昭和四五年五月、「臨床眼科」二四巻五号誌上の「未熟児網膜症の光凝固による治療Ⅱ―四症例の追加ならびに光凝固療法適用時期の重要性に関する考察―」と題する論文において、先に報告した二例の後に実施した本症四症例の光凝固による治療について追加報告し、「六症例の治療結果から、光凝固の成否を決定する最も重要な要因は実施の時期であり、オーエンスⅢ期に実施すれば進行を止め治癒せしめるが、Ⅳ期では光凝固自体が困難であり、治療しても視力の予後が良好でない。未熟児の本症に関する眼底検査については、出生後一か月以降二か月間に主力を集中すべきであり、網膜周辺部血管にうっ血、新生血管などの異常を発見したならば、その後は一週間ごとに追跡し、もし滲出性の境界線が出現したならば場合によって週二回の監視が必要と思われる。」と述べている。

(13)  前記植村恭夫は、昭和四五年一一月、「臨床眼科」二四巻一一号誌上の「小児眼科の現況と将来」と題する論説において、「本症の問題を契機として未熟児の眼の管理が急速に普及し、新生児科との交流が密接となってきた。永田の本症の光凝固による世界的研究により未熟児の眼管理の重要性はさらに高まった。」と述べている。

(14)  東北大学医学部眼科学教室佐々木一之、同山下由紀子外三名は、昭和四六年三月、「臨床眼科」二五巻三号誌上の「未熟児網膜症の検索」と題する論文において、昭和四一年から同四四年までの間、同大学産婦人科未熟児室で管理された一八〇〇グラム以下の未熟児、および一八〇〇グラム以上二〇〇〇グラム以下で酸素使用の既往歴のある未熟児四〇名について眼科的検索を行ったところ、本症例が四二・五パーセント認められたとし、生下時体重、在胎期間、酸素使用日数等との関係を検討した結果を報告している。

(15)  関西医科大学眼科学教室上原雅美、同塚原勇外一名は、昭和四六年四月、「臨床眼科」二五巻四号誌上の「未熟児網膜症の急速な増悪と光凝固」と題する論文において、同大学において過去三年三か月間に二六二例の未熟児の眼底の観察を行い、二四例に本症の発生を認め、そのうち二例と、他の病院から紹介された三例の計五例に対し、前記永田誠の提案に従い光凝固を実施した症例結果を報告し、「(1)光凝固は適当な時期に行なえば、永田の提唱したように病勢進展阻止に極めて有効である。重症例では進行速度が極めて速く、オーエンスⅢ期から急速に眼底所見が悪化し、わずか三ないし七日間で眼底が一変するものがあるので、かかる症例では早期に光凝固を行なわなければならない。(2)本症が発生すれば、オーエンスⅡ期までは観察して自然寛解を待ち、Ⅱ期からⅢ期に入る傾向を認めれば、速やかに光凝固を行なうことにしている。(3)体重八〇〇グラムというような極端な未熟児では、眼底周辺の観察が困難で、観察可能となった時期には既に光凝固で病勢を阻止し得ない高度な変化を招来しているような、やむを得ない症例もあり得る。」と述べている。

(16)  九州大学医学部眼科教室大島健司外五名は、昭和四六年九月、「日本眼科紀要」二二巻九号誌上の「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題点」と題する論文において、九州大学付属病院と国立福岡中央病院未熟児室を中心に昭和四五年一年間の本症の発生、経過、治療について説明し、更に同じ期間に九州大学眼科外来を受診した本症の患者について報告し、「(1)対象未熟児一五七名のうち本症活動期病変の発生は五九名であり、このうちオーエンスⅡ度以下の瘢痕を残したものと、完全治癒したものの合計は六七・九パーセントであった。(2)二三例の本症例に光凝固を実施した。オーエンス活動期Ⅳ期の二例三眼には著効は得られなかったが、Ⅳ期の初めまたはⅡ期の終りの病変を呈したものでは著効を奏した。(3)本症瘢痕期症例六一例のうち、九名は満期産で、生下時体重が二五〇〇グラム以上あり、酸素の補給は全く受けていなかった。」と述べている。

(17)  三国政吉外一名は、「臨床眼科全書4 眼科各論Ⅱ」(昭和四六年八月二〇日発行)において、本症につき「後水晶体線維増殖症(新生児網膜症)という項目において「高濃度の酸素保育器に入った既往のある未熟児に見られる。初め網膜血管が閉塞し、ついで血管新生と結合組織の増殖がおこり、水晶体後方に結合組織の膜を形成する。網膜剥離もおこる。一度発病すると治療法のない疾患である。予防が大切で未熟児を三〇パーセント以上の高濃度の酸素保育器に入れないことが重要である。」と述べている。

(18)  国立大村病院眼科長崎大学眼科教室本多繁昭は、昭和四七年一月、「眼科臨床医報」六六巻一号誌上の「未熟児網膜症にたいする光凝固ならびに凍結凝固の経験」と題する論文において、昭和四五年七月から昭和四六年六月までの間、前記病院未熟児センターに入室した一二〇名について眼科的に定期的眼底検査をし、そのうち、一〇例について光凝固または凍結凝固を実施し、本症の進行を停止治癒させることができたと報告し、「本症を防ぐ方法は未熟児の定期的眼底検査以外にない。ほとんどの例はオーエンス分類の経過をとるが、時として異常にすみやかに進行したり、デイマーケーションライン(境界線)の一か所だけが異常に後極へ進行して黄斑部へ近づく例もある。光凝固は新生血管の硝子体への進入以前に行った方がよいと思う。今後のもっとも大切なことは、これらの凝固例がどのような経過をとるかということである。」と述べている。

(19)  東北大学医学部眼科学教室山下由紀子は、昭和四七年三月、「臨床眼科」二六巻三号誌上の「未熟児網膜症の検索(Ⅲ)未熟児網膜症の冷凍療法について」と題する論文において、本症患者八例に対し冷凍手術を試み、光凝固と同じかそれ以上と思われる効果が期待できるとの症例結果報告をし、「(1)手術の効果は、今回の症例はいずれもオーエンスⅠないしⅡ度で治癒しており、将来重篤な視力障害は残さないものと思われる。但し、手術効果の決定については、さらに長期のフォロー・アップ(追跡検討)が必要である。(2)手術時期は、厳重な管理の下では、活動期三期に入ってもできるだけ自然治療をまってから施行することが妥当である。(3)冷凍手術の条件は、摂氏マイナス六〇度前後、六ないし八秒が適当であり、手術部位は、滲出性の境界線および異常分枝血管が存在する全ての部分を凝固する必要はなく、硝子体中に血管が著明に侵入している部を斑点状に凝固するだけで十分であると思われる。」と述べている。

(20)  前記永田誠外二名は、昭和四七年三月、「臨床眼科」二六巻三号誌上の「未熟児網膜症の光凝固による治療(Ⅲ)―特に光凝固実施後の網膜血管の発育について―」と題する論文において、昭和四二年一月から同四六年四月までの五年間天理病院において実施した光凝固治療二五症例の総括的報告を行い、「酸素使用中の持続的な動脈血酸素分圧の測定は実施面で多くの困難を伴ない、チアノーゼ指標とするモニタリングでは血液酸素分圧を把握できないうえ、今回報告した光凝固実施後にみられた二次的網膜症の発生状況から考えても、網膜血管の未熟性そのものが基礎にある以上、たとえ血液酸素分圧が正常に保たれたとしても本症発生の危険性を零にすることは不可能と考えなければならない。このような状況下にあっては、本症による失明や弱視発生の防止には、結局生後三週間より始まる定期的眼底検査による早期発見と進行の監視、進行重症例への最も適切な病期における光凝固ないしは冷凍凝固による治療が最も実際的な対策であると考えられる。今や本症発生の実態はほぼ明らかになり、これに対する治療法も理論的には完成したということができるので、今後はこの知識をいかに普及し、全国的規模で実行するかという点に主なる努力が傾けられるべきである。」と述べている。

(21)  名鉄病院眼科田辺吉彦外一名は、昭和四七年五月、「日眼会誌」七六巻五号誌上の「未熟児網膜症と光凝固療法」と題する論文において、昭和四四年三月以降同四六年六月に至る期間に、同病院において未熟児二三名に対し光凝固法を実施した症例結果を報告し、「(1)オーエンスⅢ期までの二〇例に著効をみたことから、本症はオーエンスⅢ期の初期までに光凝固を行なえば、ほぼ確実に治癒させることができる。(2)光凝固の作用は二つあり、一つは網膜を凝固して酸素消費量を少なくし無酸素状態(anoxia)を解消する効果であり、今一つは脈絡膜と網膜との癒着を作ることによって牽引乳頭を防止する効果である。(3)合併症として問題になるものはない。(4)酸素を使用しないで発生する本症の主たる原因は未熟児貧血である。」と述べている。

(22)  兵庫県立こども病院小児科田渕昭雄、同眼科竹峰久雄外三名は、昭和四七年七月、「臨床眼科」二六巻七号誌上の「兵庫県立こども病院における未熟児の眼科的管理(その2)その臨床的および病理学的考察」と題する論文において、昭和四五年五月五日以降同四六年八月三一日に至るまでの間同院に収容した未熟児一〇八名のうち一〇名に対して光凝固治療を実施した症例結果報告をし、「一〇例に光凝固を試み、八例については進行を阻止し得たが、Ⅳ期を示した一名、および発症から急速な進行をみた一名は一回の手術によってその進行を止め得ず光凝固は有効な治療であるが絶対的なものではないといえる。光凝固を行なった時期は主にⅡ期の後期であったが、この時期に行なうと成功率が良く、凝固斑による網膜の機能障害も少ないと考えられる。現在のところ光凝固による治療が最も有効な方法であるが、光凝固による網膜の組織学的な変化が著しいことから、こういった網膜の組織学的変化をきたさない治療をさらに検討する必要がある。」と述べている。

(23)  広島県立広島病院野間昌博外二名は、昭和四六年九月二六日、「第六八回中国四国眼科学会」において、昭和四五年一月より同四六年八月まで同病院に収容し観察しえた未熟児八三例のうち一二例に光凝固を加え、大部分はオーエンスⅡ度を示して治癒したと研究報告し、この内容は、昭和四七年一一月、「眼科臨床医報」六五巻一一号に掲載された。

2  本件当時までに小児科界等において発表された文献について

《証拠省略》によると、次の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(1)  昭和四〇年頃までは、わが国において本症の症例が少なく、本症に関する文献も少なく、文献内容も、アメリカにおける本症の発生状況、研究成果の紹介がほとんどで、わが国における本症の症例研究報告は、きわめて少なかった。

昭和二九年徳島大学医学部眼科教室水川孝外二名は、「総合臨牀」三巻四号誌上の「Retrolental Fibroplasia」と題する論文において、本症に属すべき四症例を報告し、昭和三二年賛育会病院小児科藤井とし外一名は、「小児医学」五巻二号誌上の「後水晶体繊維症(Retrolental Fibroplasia)について」と題する論文において、本症の初期変化と思われる八症例を報告し、合わせて、本症に関するアメリカの研究成果(オーエンスの分類による病態変化等)を紹介している。

昭和四〇年発刊の「新生児とその疾患」において、三宅廉は、本症について、酸素使用にもとづく疾患として、記述しているが、「わが国では酸素使用が少ないので発症例が少ない。予防法としては酸素の使用を仮死又はチアノーゼのある場合にのみ止める。酸素の量を三〇パーセントにとどめ、四〇パーセントを用いても三日後には二五ないし一〇パーセントに下げるべきである。」と述べている。

(2)  前記植村恭夫は、昭和四一年七月、「小児科」七巻七号誌上の「早期発見に小児科医の協力を必要とする眼疾患」と題する論記において、本症が決して消失してしまった疾患でなく、本症の瘢痕期患者があとをたたないので、小児科医、眼科医とが協力し、眼底検査を実施して本症の防止に努めるべきであると述べている。

(3)  日本産科婦人科学会新生児委員会編「新生児学」(昭和四一年一一月一五日発刊)には、「新生児の呼吸障害において酸素の必要なことは論をまたないが、過剰な酸素供給がRLFの原因になるといわれて以来、酸素供給は三〇パーセント以下、また少なくとも四〇パーセント以下にとどめるべきであるといわれている。アメリカにおいて、血中酸素濃度が高値を示さない限り高濃度の酸素供給を長期間続けても副作用がないといわれているが、臨床の実際において血中の生化学的な変動を時間的に測定する設備の整っていないところでは、チアノーゼ等の臨床像を観察しながら、酸素量を加減することが大切である。本症に対する積極的治療法はなく、酸素濃度の急激な変化を避けるべきであり、高濃度の酸素を与えないことである。」と述べている。

(4)  前記植村恭夫外一名は、昭和四二年、「医療」二一巻八号誌上の「未熟児網膜症に関する研究」と題する論文において、わが国では本症に対する関心が薄く、対策がほとんどたてられていないが、本症による眼障害が漸次増加していると警告し、国立小児病院未熟児病棟において昭和四〇年九月から昭和四一年八月までの一年間に観察した一三例の本症活動期症例、四〇例の瘢痕期症例を報告し、前記(一)眼科界(4)論文と同旨の研究成果を発表した。

(5)  九州大学総長遠城寺宗徳外三名監修にかかる「現代小児科学大系眼科・耳鼻科疾患」(昭和四二年一〇月七日発刊)において、本症について後水晶体線維増殖症との病名のもとに酸素供給過多による疾患で、病態はオーエンスの分類によって進行するとし、「治療法としては早期の活動期または消退期に発見されたものでは、直ちに五〇ないし六〇パーセントの酸素を含む保育器に移し、副腎皮質ホルモン剤、ビタミンE、D剤などを投与し、段階的に酸素分圧を減じていけば有効な場合が多いが、瘢痕期ではいかなる治療も無効である。早期発見が必要で、未熟児の眼底検査は今後励行されるべきものである。予防としては、保育器内の酸素分圧を四五パーセント以下に保つか、使用期間を最小限として定期的眼底検査を行うことである。」と述べている。

(6)  九州大学小児科学教室高嶋幸雄外三名は、昭和四三年一月、「小児科診療」三一巻一号誌上の「退院時における未熟児眼底検査とその意義について―自験例を中心として―」と題する論文において、眼科検査をした未熟児二〇一例中、本症(後水晶体線維増殖症)と思われる二症例を経験したと報告し、入、退院時のみならず、一ないし二週毎の定期的眼底検査を行なう必要があると述べている。

(7)  前記植村恭夫は、昭和四三年一一月、「産婦人科の実際」一七巻一一号誌上の「新生児眼疾患」と題する論文において、本症について自験症例を挙げて実態を紹介し、「本症の発生は、生下時体重、在胎週数、酸素療法と密接な関係があり、アメリカではすでに血中酸素分圧をモニターとしているが、わが国では定期的眼底検査により酸素供給管理をして予防に努めるべきである。最近永田らにより光凝固法という新しい治療法が登場した。」と述べている。

(8)  青森県立中央病院眼科須田栄二は、昭和四四年九月、「青森県立中央病院医誌」一四巻三号誌上の「未熟児網膜症例についての臨床的考察」と題する論文において、昭和四二年一月から昭和四四年四月まで同病院未熟児室に収容された未熟児二三四例中、一三例に本症の発症を認めたとし、在胎週数、生下時体重、酸素治療期間、双胎との関係について報告し、「本症の発生要因として酸素治療が最も責任があるのは勿論であるが、RDSとの関係から、酸素コントロールはPO2(血中酸素分圧)の評価によるのが最も合理的である。技術的困難があって、現在、殆んどの病院では実施できないが、PO2の測定が十分行なわれ、小児科医と眼科医との協力が得られれば、本症の予防に大きな効果がある。」と述べている。

(9)  関西医科大学小児科岩瀬師子外五名は、昭和四五年二月、「小児外科・内科」二巻二号誌上の「未熟児網膜症の発生要因と眼の管理について」と題する論文において、昭和四二年三月から昭和四四年四月までの間観察した未熟児一八〇例のうち一七例に本症の発症をみたとし、生下時体重、在胎期間、酸素投与日数等との関係について考察した結果を報告し、「本症は生下時体重、在胎週数との相関性が大きく、酸素濃度との関連性は、全例高濃度酸素療法を行っていない事実からして軽症の本症発生には酸素吸入が関与するとの実証は得がたい。」と述べている。

(10)  前記植村恭夫は、昭和四五年七月、「小児科」一一巻七号誌上の「未熟児網膜症の診断と治療」と題する論文において、本症の検査方法、眼底所見、治療法について眼科医の立場からそれまでの研究成果を紹介し、「生後より一週ごとに定期的眼底検査を繰り返し、ことに生後三ないし五週ころは本症の発生が最も高いので、注意深い観察が必要である。本症の発生に酸素がひきがねの役割をすることは否定できないが、これが本症をもたらす正確な機序は未だ明らかではない。PO2値をモニターとすることは、測定器機が高価であり、技術に熟練を要することもあって、必ずしも容易に行なえず、PO2と本症との関係が明確でなく本症の予防手段としては万全ではない。本症の治療としては、Ⅱ期までに薬物療法、光凝固を実施し、それ以上の進行をとめる方針がとられる。」と述べている。

(11)  名鉄病院眼科池間昌男は、昭和四五年二月、「現代医学」一七巻二号誌上の「光凝固法に就いて」と題する論説において、光凝固が本症にきわめて有効な治療法であると述べている。

(12)  前記植村恭夫は、昭和四五年一二月、「日本新生児学会雑誌」六巻四号誌上の「未熟児網膜症」と題する論文において、それまでの本症に関する眼科学会の研究成果を紹介し、その中で光凝固法について、「昭和四三年永田が光凝固法を実施し、本症の進行をとめ得たことを報告したのち、各地で光凝固による治験例が出されており、この方法により、本症は早期に発見すれば、失明または弱視にならずにすむことがほぼ確実となった。」と述べている。

(13)  前記植村恭夫は、昭和四六年三月、「小児外科・内科」三巻三号誌上の「未熟児網膜症(Rettnopathy of Prematurity)」と題する論文において、本症と酸素療法の関係、臨床所見、治療について、それまでの研究成果について報告し、予防治療法について、「酸素濃度は可及的低い濃度のものを使用し、必要と認められる時以外四〇パーセントを超えるべきでなくPO2値の測定も必要であるが、これのみでは本症の予防は果せない。現在は、眼底検査が本症の前駆症状を捉えるもっとも重要な検査法である。光凝固法の登場により、難治の本症にも、前途に光明が与えられた。」と述べている。

(14)  国立小児内科奥山和男は、昭和四六年一〇月、「小児医学」四巻四号誌上の「水晶後部線維増殖症」と題する論文において、本症の歴史的背景、発生機序、臨床経過、予防および治療について概説し、「未熟児に酸素療法を行なうときには、RLFの予防のために、動脈血のPO2を測定して、それに基づいて酸素濃度を加減するのが理想的であるが、現在このような方法を行なうことのできる病院は少ない。実際には、全身的なチアノーゼをめやすにして、必要最小限の酸素を投与する方法が一般に用いられている。RLFの発生は、反復する無呼吸発作を有した未熟児と呼吸窮迫症候群に多い。反復する無呼吸発作に対しては、適切な環境の酸素濃度をきめることが困難であるが、呼吸が再開されたら酸素を速やかに低下させるか、酸素を中止することが必要である。呼吸窮迫症候群では、回復期に酸素の過剰投与がおこりやすいので注意を要する。本症の治療に、光凝固法が登場したが、適切な時期に光凝固法を行なうことによって、失明を救い得るようになった。」と述べている。

(15)  名鉄病院眼料田辺吉彦は、昭和四六年一一月、「現代医学」一九巻二号誌上の「未熟児網膜症」と題する論文において、本症について概説しているが、同病院では、光凝固を二五例行なったが、無効例は二例のみであり、オーエンスⅢ期までの二一例は全部著効を奏したもので、光凝固は適当な時期に行なえば、確実に治癒せしめることができると報告している。

(16)  前記永田誠外五名は、昭和四六年六月、「日本新生児学会雑誌」七巻二号誌上の「天理病院における未熟児網膜症の対策と予後」と題する論文において、天理病院における四年一か月間一六五例の生存未熟児を対象とした本症の研究報告をし、生下時体重、在胎週数、酸素使用日数との関係について考察し、Ⅲ期に至った五症例に光凝固を実施したが、良好な結果を得られたと述べている。

(17)  前記奥山和男は、昭和四六年一一月、「日本小児科学会雑誌」七五巻一一号誌上の「未熟児網膜症の予防と対策」と題する論説において、本症の治療について、副腎皮質ホルモン剤の効果については見解の一致をみないが、光凝固法は現在唯一有効な治療法であることが各施設で確認されていると述べている。

(18)  大久保病院斎藤脩は、昭和四七年六月、「未熟児新生児研究会会誌」誌上の「呼吸窮迫症候群の剖検所見から」と題する論文において、昭和三〇年以降の都立母子保健院における剖検例を、治療法との関連を考慮して検討した結果を報告し、「最近の低出生体重児剖検例では、積極的な治療法の効果を反映して、未熟・肺拡張不全、核黄疸による死亡は明らかに減少しているが、肺硝子膜症、脳室内出血は明らかな増加傾向がある。」と述べている。

3  右1、2に掲げた各証拠、そこで認定した各事実、《証拠省略》によると、わが国における本症に関する研究は、昭和四〇年までは、一九四〇年(昭和一五年)代にアメリカにおいて非常な発生がみられたが、酸素投与の制限によってほとんど見られなくなった未熟児疾患とされ、臨床医家の関心も低かったが、昭和四一年、前記植村恭夫が、酸素供給装置のついた保育器の普及とともに、わが国でも本症の発症がみられるので、定期的眼底検査を実施して、小児科、眼科の協力体制の下に酸素投与の管理を行ない発症防止に努めるべきであると研究発表し、ひきつづき眼科、小児科、産科各学会雑誌等で次々に啓蒙的研究報告を発表して以来、本症に対する研究関心が高まり、眼科界においては前記永田誠ら、小児科界においては前記奥山和男らの研究発表が相次ぎ、本症の病態、予防法、治療法等が次第に明らかになるとともに、本症に関する眼科界、小児科界の医学知識の交換、交流と診療協力体制が活発化した結果、本件当時(昭和四八年六月頃)において、大学付属病院等の先進的医療機関およびそこに在勤する眼科医、小児科医の本症に関する一般的認識は、いずれも次のとおりであったと認められ、この認定に反する証拠はない。

(1)  病態について

本症は、生下時体重が低く、在胎期間の短かい、網膜が未熟な未熟児に発症することが多く、患児の大部分は窮迫性呼吸症候群等の呼吸障害があったため酸素療法を受けている。本症は、概ね前記オーエンスの分類に従い段階的に進行し、約八〇パーセントはオーエンスⅠ期までの進行にとどまり自然寛解するが、オーエンスⅢ期まで進行した重症例は自然寛解率が減少し、瘢痕度も高く、失明に至るものもあって、予後不良である。

(2)  原因について

本症は、酸素療法を受けた未熟児に多く発生し、酸素投与の制限をすると発症が減少するとの臨床経験から、未熟児の網膜血管の未熟性を素因とし酸素投与を原因とする説が有力であり、その発生機序は、「胎児の網膜血管は胎生八か月では耳側血管が鋸歯状縁まで達していないため、未熟児(在胎週数の短かいもの)の網膜血管の新生は胎外環境で行なわれる。この新生血管は酸素の過剰にも不足にも敏感に反応するが、過酸素症の状態になると血管は強く収縮し、不完全あるいは完全閉塞を起こす。この血管収縮、閉塞により、循環障害を起こし、血管末梢部の低酸素状態、代謝性終末産物の増加をもたらすため、網膜浮腫、血管増殖を惹起し、増殖した新生血管が硝子体中に侵入し、網膜を牽引して剥離をきたす。」とされるが、成熟児や酸素投与をしない未熟児にも発生し、原因および発生機序は未だ確定をみない。

(3)  予防法について

本症の原因および発生機序の確定はみないが、本症の発症が酸素投与と密接な関連のあることは明らかであり、酸素投与の管理が徹底すれば(理論的には、胎内環境と同様の酸素環境を設定できれば)、ほぼ予防できると考えられる。しかしながら、未熟児、特に極小未熟児は肺機能が未発達のため、呼吸障害を伴うことが多く、低酸素症、無酸素症によって生命の危険や、脳性麻痺を起こすおそれがあるため、「生命・脳か、眼か。」の二律背反の治療を要求され酸素投与の管理には非常な困難が伴う。昭和四〇年頃までは、保育器内酸素濃度を四〇パーセント以下にすれば良いと言われていたが、本件当時には本症と酸素との関連とは、酸素が体内にとり入れられたのちの動脈血の血中酸素分圧(または、血中酸素濃度)との関連が重要であり血中酸素分圧を新生児の正常値である六〇ないし八〇mmHgに維持することができれば、本症の発生の予防効果が大きいことが明らかになってきた。しかし、本件当時、動脈血の血中酸素分圧の測定は、動脈(臍動脈、橈骨動脈など)から約〇・二ないし一CCを採血してILメータで検査する方法によっていたが、動脈血の反復採血は、未熟児に対する侵襲および感染のおそれが大きいため、極めて困難であるので、酸素投与の基準としては、保育器内酸素濃度を一応最大限四〇パーセント(但し、無呼吸発作等を起こした時は、一時的にこれを上回ることもある。)とし、チアノーゼ、呼吸状態等の全身状態の変化を観察して、酸素濃度を増減調節し、酸素の過剰投与を極力避けるようにするべきである。

(4)  薬物治療について

本症に対する薬物治療について、本件当時には、本症の初期(オーエンスⅠ、Ⅱ期)に副腎皮質ホルモン剤、ビタミンE剤を投与して、血管新生の抑制、浮腫の消退を図ることが、臨床医の間でほぼ共通した治療法であり(但し、本症が多く自然寛解することもあって薬物治療の効果が確認できていない、また、副腎皮質ホルモン剤投与は小児の全身状態に悪影響を及ぼすとして、薬物治療に対する疑問が、かなりの臨床医の間に抱かれていた。)、オーエンスⅣ期以上に進行した場合には効果がない。

(5)  光凝固法について

昭和四三年四月、前記永田誠が光凝固法の成果を「臨床眼科」二二巻四号に発表して以来、昭和四六年には九州大学医学部眼科教室、関西医科大学眼科教室、名鉄病院眼科、昭和四七年には兵庫県立こども病院、徳島大学医学部、国立大村病院眼科等における本症についての専門的研究者らが次々と光凝固法についての追試結果報告を小児科、眼科の専門誌に発表したが、いずれも前記永田誠の報告と同様の良好な成果を収めたとの内容であり、また昭和四七年前記永田誠はそれまでの研究成果をまとめた総括論文を発表し、昭和四七年には、わが国の先進的医療機関(大学医学部付属病院、医療施設の完備された総合病院等)において、光凝固法が本症の重症例に対するきわめて有効な治療法として普及定着した。

この光凝固実施にあたっては実施時期が極めて重要である。したがって、生後三週間以降週一回、活動に変化が見られるようになった場合には週数回の眼底検査を実施して、病変の経過観察を続け、オーエンスⅢ期(またはオーエンスⅡ期の終り)に入る自然寛解の可能性が少なくなり、網膜剥離を起こす前に、眼底周辺部の滲出性病巣を新生血管とともに光凝固で破壊し、人工瘢痕を作ることにより病変の消退を図る。

しかし、光凝固装置は成人の眼科治療にも使用されるが、非常に高価な機械装置であるため、これを備える医療機関は少なく、また未熟児眼底は、瞳孔が十分拡大しないことが多いうえ、極小未熟児では動脈遺残による透光体混濁が見られることも多く、眼底検査によって病態を把握し、病期を判定すること自体極めて熟練を要するし、光凝固は未熟児の眼底周辺部に数十発から多い場合には数百発の凝固瘢を作出するもので高度の手技を要求されることから、光凝固を実施できる臨床医は極めて少数の専門的研究者に限られる。

(6)  定期的眼底検査について

前記植村恭夫は、その研究発表当初は、酸素投与のモニターとしての眼底検査を提唱したが、本件当時は、酸素モニターとしての定期的眼底検査は無意味で、定期的眼底検査は、光凝固治療の実施時期の決定のために必要不可欠の検査としてなされる。倒像検眼鏡により生後三週間以降(全身状態が許せば可能な限り早期から)三か月まで週一回追跡し、滲出性の境界線が出現したら週二回の監視が必要であり、眼底周辺部の病変の観察に気をつけ、オーエンスⅢ期(またはⅡ期の終り)に突入して進行をとめない時は、直ちに光凝固の措置をとるべきである。但し、前説示のとおり、未熟児の眼底検査は、極めて手技的熟練を要するうえ、一〇〇例以上の本症活動期症例を経過観察した経験がないと、的確な病期の判定は困難である。

五  本件以降現在(口頭弁論終結時の昭和五五年一二月一二日)までの本症に関する研究の発展について

《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、他にこれに反する証拠はない。

1  本症に関する研究は、昭和四〇年以降、前記植村恭夫、同永田誠らの研究により酸素療法の改善、眼底検査の普及、光凝固法の開発等飛躍的発展を遂げ、本件当時、少なくとも先進的医療機関においては、前示水準にまで達した。しかしながら、昭和四七、八年頃から、本症に関する研究者の間で、病態観察の基準とされてきたオーエンスの活動期の分類法が、検眼鏡も未発達でアメリカで未熟児に酸素を無制限に投与していた時代(昭和三〇年頃)に確立されたもので、未熟児に対する酸素管理が進歩し、倒像検眼鏡、ボンノスコープ等が開発されてくると、本症の病態把握の基準として十分に機能せず、医師によって活動期の把握、更には、光凝固実施の適期の判断がまちまちとなって本症の診療、研究に不都合であるので、診療基準の統一が要請されることになった。また、光凝固法が各医療機関に普及する一方で、症状が急激に進行し、前記永田誠らの提唱する光凝固法の適期基準および実施方法では、本症の進行を止め、寛解させることのできない症例が、少数ではあるが報告されるようになり本症の診療・研究について再検討を要するようになった。

昭和四九年二月、福岡大学医学部眼科教室大島健司外六名は、本症の中には通常の臨床経過と異なり、急激に増悪し失明に到る例があるとして、「臨床眼科」二八巻二号誌上に「急激に進行増悪する未熟児網膜症に対する光凝固療法」と題する論文を発表し、昭和四五年一月から昭和四八年四月までに九州大学眼科外来および九州大学厚生年金病院で光凝固を行なった一五二名の患者のうち、一八名につき急激に進行増悪する本症を経験したが、この症例には、いわゆる境界線を形成する等の段階的な臨床経過をとらないため、治療時期を逸したり、従来の光凝固処置では対処できずⅤ度の瘢痕に至ってしまうので、滲出性の剥離の起こり始める前に予防的に全周の無血管帯にできるだけ多くの光凝固を行なう必要があると報告した。

以上ような事情の下に、従来の本症に関する研究報告には診断、治療面に統一を欠く点があり、社会的にも問題を起こすに至ったとして、昭和四九年、厚生省は本症に関する主だった研究者の協力により特別研究班を設け、本症の診断、治療基準に関する研究にあたらせたが、この研究結果は、昭和五〇年に厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班報告「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」(主任研究者前記植村恭夫、分担研究者前記塚原勇外一〇名)(以下「厚生省研究報告」という。)として次のとおりまとめられた。

「(1) 活動期の診断基準および臨床経過分類について

本症を臨床経過・予後の点よりⅠ型とⅡ型とに大別する。但しこの他Ⅰ、Ⅱの混合型ともいえる型がある。Ⅰ型は、主として、耳側周辺に増殖性変化をおこし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離に至る段階的に進行する比較的緩徐な経過をとり、自然治癒傾向の強い型のものであり、臨床経過分類は1期から4期に分けられる。(分類の詳細については前記二1で認定したところと同じである。)。Ⅱ型は、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、hazy(透光体混濁)のため無血帯が不明瞭なことも多く、後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられ、Ⅰ型と異なり段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴ない比較的速い経過で網膜剥離をおこす、自然治癒傾向が少ない型である。

(2) 瘢痕期の分類について

光凝固、冷凍凝固を行なっていないものを、1度から4度に分類する(分類の詳細については、前記二1で認定したところと同じである。)。

(3) 治療基準について

治療の適応については、Ⅰ型については、自然治癒傾向を示さない少数の重症例のみに選択的に治療を施行すべきであり、Ⅱ型については失明を防ぐために治療時期を失なわぬよう適切迅速な対策が望まれる。治療時期・方法については、Ⅰ型は、自然治癒傾向が強いので2期までは治療を行なう必要はなく、3期に入ってから更に進行の徴候の見られる時初めて治療が問題となり、光凝固を実施する時は、無血管帯と血管帯との境界線域を重点的に凝固し、後極部附近は凝固すべきでない。Ⅱ型は、血管新生期から突然網膜剥離を起こしてくることが多いので、治療の決断を早期に下し、後極部血管の迂曲怒張が増強する徴候が見えた場合は、直ちに治療を行ない、光凝固は、無血管帯にも広く散発凝固を加える。混合型については、適応、時期、方法をⅡ型に準じて行なうことが多い。副腎皮質ホルモンの効果については、全身的な面に及ぼす影響をも含めて否定的な意見が大多数であった。」

厚生省研究報告により、本症は、Ⅰ型、Ⅱ型および混合型に分類されたが、右研究開始当時には、わが国の最高水準の研究者が集まったのにかかわらず、Ⅱ型の臨床例を経験していない者もおり(ちなみに光凝固の開発者である前記永田誠も経験しておらず、前記植村恭夫も昭和四八年五月に国立小児病院より転出するまで、同院においてⅡ型の経験がなかった。)、Ⅱ型は急激に進行して失明に至るおそれが大きいゆえ早期に治療する必要があることは明らかであるものの、臨床例が少ないこともあってⅡ型の初期像および治療方法は明確にならなかった。

2  厚生省研究報告後は、本症の治療については、Ⅰ型については、経過観察をし、自然治癒しない一部にのみ光凝固を実施するとの基準が固まり、治療の研究関心は、Ⅱ型および混合型の治療法が中心となってきたが、本症の治療につき以下の研究報告が発表された。

(1)  名古屋市立大学医学部教授馬嶋昭生は、昭和四七年六月以降、本症未熟児の片眼のみに光凝固を実施し、他眼は光凝固を行わず自然観察をする研究を始めたが、本症は光凝固を行わなくても大部分が自然治療するとの結果が得られたとし、昭和五〇年「未熟児網膜症に対する片眼凝固の臨床経過について」と題する論文を発表した。

(2)  国立小児病院眼科森実秀子は、昭和五一年一月、「日眼会誌」八〇巻一号誌上の「未熟児網膜症第Ⅱ型(激症型)の初期像及び臨床経過について」と題する論文において、過去一〇年間、同病院で眼底検査を実施した未熟児の中の第Ⅱ型の症例についての眼底所見の研究報告をし、「Ⅱ型の眼底像に関する解釈が観察者により異なり、これまでに明確な病像が規定していなかったが、著者は第Ⅱ型の眼底像の確証として次の三要素をとりあげた。(1)網膜血管が後極部から四象限すべての方向に向い著しい迂曲怒張を示す。(2)新生血管帯は業状をなし一周しまた多数の吻合形成が認められ、所々に出血斑が存在する。(3)これら病変の発現部位が極めて類型的であり著者はこれをⅡ型圏と称した。すなわち鼻側は乳頭から二ないし三乳頭径、耳側は黄斑部外輪付近の範囲にある。」と述べている。

(3)  九州大学医学部眼科学教室副島直子外二名は、昭和五一年二月、「日本眼科紀要」二七巻二号誌上の「未熟児網膜症のⅡ型、いわゆる進行の速い網膜症の臨床」と題する論文において、昭和四八年一月から昭和五〇年五月までの間に経験した本症Ⅱ型一一例についての症例研究報告をし、「(1)全身所見および眼所見のいずれにおいても、Ⅱ型はⅠ型三期進行例に比べて未熟度が大であった。しかし貧血の程度、呼吸障害の存在には大差はみられなかった。(2)動脈血最高酸素濃度が一六〇mmHgをこえた例が見られたことから、著しい高濃度酸素が本症Ⅱ型の発症の一因になると考えられる。(3)Ⅰ型に比べ光凝固の予後が悪かった。また、Ⅰ型三期進行例とⅡ型の中間の型をとる本症も存するので、治療は画一的になることを避けるべきであるが、光凝固は施行時期とその方法が適切であればきわめて有効であると思われる。」と述べている。

(4)  前記永田誠外九名は、昭和五一年一一月、「日眼会誌」八〇巻一一号誌上の「宿題報告(Ⅲ)未熟児網膜症に関する諸問題・未熟児網膜症光凝固治療の適応と限界」と題する論文において、従来の光凝固治療成績に総括的な検討を加え、「従来の光凝固適応基準は誤まっていたとは考えていないが、光凝固実施症例のうち、放置すれば重症瘢痕を残すものはその五分の一ないし六分の一であったと推定される。Ⅱ型、混合型について、光凝固は絶対的適応であるが、全身状態とのかね合いで治療時期の選択に問題があり、更に患児に酸素投与が極めて長期に行われ、網膜、血管の退縮消失があまりに著しい場合には救い難い可能性もあり、治療の限界が存する。」と述べている。

(5)  昭和五一年一二月三〇日発行された「産婦人科シリーズ未熟(児)網膜症のすべて」(編集九嶋勝司)は、それまでの本症に関する研究の成果を本症の病態、原因、治療、症例等に分けてまとめたものであるが、その中で前記植村恭夫は、本症の病態について、前記永田誠は本症に対する光凝固法の治療方法を、それぞれ昭和四九年以降の研究成果をふまえて、詳細に論述している。

(6)  名古屋市立大学教授馬嶋昭生外五名は、昭和五一年一一月「日眼会誌」八〇巻一一号誌上の「宿題報告(Ⅰ)未熟児網膜症の諸問題・発生、進行因子の解析と未熟児成長後の眼底所見、視機能について」と題する論文において、同大学未熟児病棟で昭和四五年一月一日から昭和五〇年六月三〇日の間管理された未熟児四七〇例について、本症の発生、進行と各単独因子の関連性について詳細に多変量解析した結果を報告したが、生下時体重が最も関連が深く、次いで在胎週数、赤血球数三〇〇万以下の持続期間、酸素投与期間との関連性が強く、本症は患児の未熟性が最重要因子であるとしている。但し、前記馬嶋らは、酸素に関する因子ではPaO2値が重要であるが、現段階ではPaO2の持続的測定が実用の段階でないため、頻回検査によって得られた最高値と最低値を単独因子としており、この点の解析の不十分さを認めている。

3  本件以降、本症に関する研究は、光凝固法の有効性が確認されたものの、研究者、医師によって診療基準が異なり、本症の診療にあたって不都合があったところ、昭和五〇年に発表された厚生省研究報告により新たな局面を迎えた。厚生省研究報告により、本症はⅠ型、Ⅱ型に大別され、それまで光凝固の奏効しない急激に進行する本症例として一部の医師、研究者間で経験されていたものが、Ⅱ型として、従来研究対象となっていた症状が段階的に進行するⅠ型とは、病態、治療の適応・時期・方法が異なるものであることが明らかにされ、更に、前記馬嶋昭生の片眼凝固による比較研究を契機として、本症Ⅰ型はきわめて自然治癒傾向が強く、従来光凝固を実施された症例のうち八〇パーセント位は、光凝固をしなくても自然治癒したと推定されるため過剰治療が反省され、Ⅰ型は自然治療に委ね、3期に入ってもなお進行のみられる一部のみが光凝固の対象となるにとどまるのであって、自然治療の期待できないⅡ型、混合型が光凝固等の治療の対象の中心になされるに至った。

厚生省研究報告によって、Ⅱ型、混合型は、自然治癒傾向がなく、放置すると失明するので、早期に光凝固を実施するべきであるとの治療方針は定まったが、Ⅱ型、混合型は発症例が少ないうえ、発症が多くみられる極小未熟児では生後三週間位まではヘイジー・メディアのため眼底を透見できず、かつ症状に個体差が著しいため、初期像の把握が困難で治療時期の決定が難しく、光凝固を実施しても強度の瘢痕を残し、失明に至る例も少なくない。

Ⅱ型の治療については、前記永田誠、同大島健司らは、後極部血管の怒張が見られたら直ちに、境界部を含め無血管帯にできるだけ周辺まで数多くの凝固斑をおくようにして、予防的に徹底して実施すれば有効であるとするが、凝固斑を数多くつくるため瘢痕が大きく、いわば葦の穴から天を見るような視野しか得られないこともあり、凝固斑の眼球に及ぼす影響が大きいとして、Ⅱ型に対する光凝固の効果に疑問を抱く研究者もあって、治療方法、効果について研究者間に見解の一致をみないため、厚生省研究班の昭和五二年度以降の三年間研究目的の一つに「Ⅱ型の光凝固の有効性について」が挙げられ、現在前記植村恭夫外の研究班員によって研究が進められている段階である。

このように、光凝固法は、それまで治療法のなかった本症に対する画期的な治療法として開発され、昭和四七年頃には有効性が確認されて医療機関に普及するようになったが、本症の発生機序が十分に解明されていないことと相まって、その奏効機序、人工的瘢痕が成長過程にある眼球に与える影響は未だ不明であって、Ⅰ型に対する治療方法はほぼ確立したものの、Ⅱ型、混合型については有効性が概ね確認されているが、今後の研究にまつ問題点を多く包蔵しており、また、本症が産科における未熟児出生の防止対策、小児科における未熟児管理が徹底すれば、発症を防止できる可能性の強い疾患であるゆえ、光凝固法はあくまで、過渡的な治療法であり、本症の予防こそが重要であるとの認識が更に強くなっている。

4  本症の原因、予防については、本件当時、未熱児の網膜の未熟性を素因とし、酸素の過剰投与に密接な関係をもつゆえ、未熟児の酸素管理を中心とする集中管理が本症発生の予防に不可欠であると言われていたが、その後次のような研究がなされた。

国立岡山病院小児科医長山内逸郎は、昭和四九年、ドイツから動脈血中酸素分圧を連続的に測定できる経皮的血中酸素分圧測定器をわが国にもたらし、酸素療法を受けている未熟児の血中酸素分圧を計時的に測定したところ、未熟児の状態により血中酸素濃度は短時間(例えば一分間)のうちに大きく変動することが明らかになり、それまで行なわれていた採血による測定では、その変化を把握できず検査効果の乏しいことが明らかになったとして、その研究結果を昭和五一年「経皮的血液酸素分圧測定法によって観察された未熟児のPO2とその変動」と題する論文に報告した。

しかし、右経皮的血中酸素分圧測定器は極めて高価なうえ、一人の未熟児に一台設置しなければ検査効果がなく、未だ普及するには至っておらず、またその測定法が経皮的で間接的であるため必ずしも正確なPaO2値を得られない欠点もあって実用化していない。したがって酸素管理は現時点では、採血による動脈血PO2値測定にたよらざるを得ないが、患児に対する侵襲が大きく頻回検査にも限度があるうえ、PaO2が変動しやすいため、十分モニターの役割を果さず、従来の保育器内濃度とチアノーゼ等の全身症状による方法を併用せざるを得ない。

六  原告香織の臨床経過

前記争いのない請求原因三の事実、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

1  被告病院の未熟児哺育システム

昭和四八年六月当時、大学付属総合病院である被告病院においては、産婦人科は、分娩室および酸素供給装置のついた保育器を備えた新生児室を有し、生田部長以下五名の医師が分娩および新生児の診療、哺育にあたり、小児科は、小児科病棟、隔離病棟、および保育器、一般ベット合計三〇床を備えた未熟児センターを有し、野呂幸枝部長以下七名の医師が診療にあたっていたが、そのうち未熟児センターには専属医はいないが右野呂部長以下三名の医師が平日は一日一回定期回診をして未熟児の診療、哺育にあたり、眼科では、斎藤紀美子部長以下二ないし四名の医師が診療にあたり、特に未熟児眼底検査については右斎藤医師がこれを専属担当していた。被告病院産婦人科において未熟児が出生した場合には、担当産婦人科医師は直ちに未熟児センターに入院連絡をとる一方、新生児室内において、保温、酸素投与等の必要治療を行ない、未熟児センターの受入れ態勢が整い次第、未熟児を搬送し、担当小児科医師に未熟児の出生時およびその後の状態、未熟児に対する治療措置を通知することになっていた。未熟児センター入院後、担当小児科医師が、未熟児の哺育、治療にあたるが、眼科との診療連絡については、小児科カルテの作成と同時に、未熟児の状態を書いた御高診用紙を作成して眼科に送り、原則として生後一週間目および退院時に右斎藤医師の眼底検査を受ける他、この間にも斎藤医師の指示により随時受検することとなるが、未熟児の全身状態の悪い時には、担当小児科医師の判断により、第一回眼底検査の時期を遅らせたり、その後の受検日を変更することもあった。眼底検査は、右斎藤医師が未熟児センター内の暗室で行なうこととし、検査結果を通知用紙に記載して小児科へ連絡するが、文字では表現しにくい所見等については別に口頭で連絡し、担当小児科医師は右所見にもとづいて治療するとともに、未熟児の心臓、呼吸の状態や酸素投与の状況等を斎藤医師に随時連絡し、未熟児の哺育、治療の検討を行なっていた。未熟児センターでの哺育、治療は、担当小児科医師の判断で行うが、各処置については毎日野呂医師に報告し、野呂医師の定期回診の所見を合わせ考慮して、診療方針を決定する体制をとっていた。

被告病院眼科には光凝固装置はなかったが、被告病院の本院である大学付属病院眼科(以下「本院」という。)では、塚原勇教授をはじめとする研究スタッフが、本症治療法としての光凝固法の研究開発中であって、光凝固装置を備えており、斎藤医師が眼底検査結果を検討のうえ、光凝固が必要と判断した時には、本院に移送する体制がとられていた。

2  産科・小児科の臨床装置

(一)  原告香織はその分娩予定日は昭和四八年八月五日であったところ、これより早い同年六月一五日午前九時、被告病院において出生した。同原告の出生当時、母の原告末子は、胎盤早期剥離による多量出血でショック状態であった。

原告香織は、在胎週数三三週(終経より三一週一日)、生下時体重一〇〇〇グラム(未熟児センター入院時九七〇グラム)、身長三六・五センチメートル、胸囲二七・五センチメートルの早産児で、いわゆる極小未熟児であった。同原告の出生時の全身状態は、新生児の状態を示すアプガール・スコアが一〇点(満点)、呼吸数が毎分四八ないし六〇回で特に異常は認められなかったが、産婦人科主治医の訴外岡野順子(以下「岡野医師」という。)は同原告が極小未熟児であることから呼吸障害等をおこすことを懸念し、被告病院内の未熟児センターに入院連絡をとり、入院までの間、同原告を産婦人科新生児室内の保育器に収容し、毎分一リットルの酸素を投与した。

(二)  同原告は、同日(生後一日)午後二時、被告病院未熟児センターに入院し、同病院小児科医師伊吹良恵(以下「伊吹医師」という。)の担当により未熟児保育を受けることになった。

同原告の入院時の状態は、次のとおりであった。身体が小さい割によく運動をするが、啼泣は弱い。心音は正常で、脈搏は規則正しい。呼吸は毎分四三回で不規則であり、呼吸状態を示すシルバーマン陥凹呼吸指数は二点(正常値〇点)で、胸部の呼吸音は聴取されるが一様に微弱であり呼吸が十分にできていない。頭髪は薄く、皮膚は赤色調を帯び、口唇、四肢にチアノーゼが認められる。吸啜反射はなく、モロー反射もほとんど認められない。被告大学の松村教授の考案にかかる新生児の成熟度点数は九ないし一〇点(三〇点満点)であった。

また、胸部レントゲン単純撮影によると、右下肺野が不鮮明で網状様を示さず、肺の発達が未熟と認められ、血糖値は一八ミリグラム(一デシリットル当り……以下、同じ。)、動脈血ガス分析によるとPH七・三二(正常値七・四位)、血中酸素濃度(paO2)四九mmHg(正常値九〇mmHg)、血中二酸化炭素濃度(PaCO2……以下「PaCO2」という。)四五mmHg(正常値四〇mmHg)、体温三五度との検査結果が得られた。

伊吹医師は、同原告が未熟児センターに入院後、直ちに同原告を保育器に収容し、担当看護婦に、保育器内を温度三二度、湿度九五ないし一〇〇パーセントに保ち、体温の発散を防ぐためフードを使用し、酸素を毎分二リットル投与するよう指示したが、その後PaO2の数値が低いとの検査結果が得られ、呼吸数が毎分六〇回となり呻吟がみられたため、呼吸障害をおこし、低酸素症による脳障害を懸念し、同日午後九時、酸素を毎分四リットルに増量し、保育器内酸素濃度を四〇パーセントとするように指示した。(なお、被告病院では酸素濃度を測定器で最低一日三回測定するよう、看護婦に指示されていた。)また栄養補給および酸血症防止のため、一〇パーセントブドウ糖、メイロン(重炭酸ソーダ)、ニコリンの臍点滴を開始した(以後、同月二三日まで継続した。)。伊吹医師は、午後九時ころから、同原告の呼吸状態が悪化したため、被告病院中央検査科に連絡し、翌一六日に動脈血ガス分析を施行してもらうように依頼した。

伊吹医師は、原告香織が状態の良くない極小未熟児であることから、同日、原告豊實と面会し、原告香織が成熟度九ないし一〇点の極小未熟児であって状態の悪いこと、極小未熟児は呼吸機能が弱く、特発性呼吸窮迫症候群を起こしやすく、生命の危険が高いこと、生命が助かった場合も、脳性麻痺による精神障害や酸素投与が一因となって未熟児網膜症による失明等の障害が残ることのあること、眼科と連絡をとり、哺育、治療に専念するので望みをもってほしいこと、入院期間は三か月間を覚悟してほしいこと等の症状説明を行い、以後も随時原告豊實、同末子に症状説明をした。

(三)  同月一六日(生後二日)。呼吸は不規則で、呼吸数は一日三回の計測によれば毎分四〇ないし六四回、陥凹呼吸が若干あるが、呻吟は認められず、シルバーマン陥凹呼吸点数一ないし二点であった。皮膚色は赤色調を帯びるも比較的良好で、チアノーゼの状態は前日と変化がなかった。血糖値は五三ミリグラムに上昇し、動脈血ガス分析によれば、PH七・四〇、PaO2六八mmHg、PaCO2四二mmHgであった。

酸素は毎分四リットル投与し(以後同年八月一日まで毎分四リットル投与を続けた。)、酸素濃度は三七ないし四〇パーセントに保ち(但し、四〇パーセントにするため一時毎分五リットルに増量したことがあった。)、臍点滴は、PHが正常値になったためメイロンを抜いた。

伊吹医師は、酸素濃度を四〇パーセントに保っても、血中酸素濃度が意図したほど上昇せず、当時本症発生の危険域と考えていた一〇〇mmHgに達していないこと、チアノーゼが残っていることから、低酸素症による脳性麻痺を危惧し、毎分四リットルの酸素を投与するのが相当と判断した。

(四)  同月一七日(生後三日)。呼吸は不規則で、呼吸数は毎分五〇ないし六四回、陥凹呼吸が若干認められ(シルバーマン陥凹呼吸点数二点)、胸部聴診によれば副雑音はなく、呼吸音は末梢まで聴取できた。低体温が続き、チアノーゼ、黄疸があり、モロー反射が認められないが、全身状態は比較的良好であった。

酸素濃度は三〇ないし三二パーセントに保ち、鼻腔カテーテルによるミルク注入を開始した(同年八月二日まで継続する。)。

(五)  同月一八日(生後四日)。呼吸は不規則で、毎分四〇台、呻吟がなくなってきた。皮膚色は中等度に良好であるが、低体温は続き口周囲、四肢末端にチアノーゼがあり、黄疸も少し認められた。モロー反射が時として見られた。動脈血ガス分析によれば、PH七・四四、PaO2七一mmHg、PaCO2三四mmHgであった。同日の体重は九九〇グラム。

伊吹医師は、PaO2が新生児の正常域に達したため、酸素濃度を三〇パーセントに下げるように指示し、同日の酸素濃度は、二八ないし三五パーセントであった。臍点滴内よりニコリンを抜いたため、この日より点滴は一〇パーセントブドウ糖のみとなった。

伊吹医師は、ガス分析のために採血した鼠径部の出血が、同日午後四時一〇分から同五時頃まで続いたため、動脈血採血が原告香織に与える侵襲が大きく、感染のおそれもあるため、以後、ガス分析による血中酸素濃度の測定を行わず、酸素投与は、保育器の酸素濃度および同原告の全身所見によって判断することにした。

(六)  同月一九日(生後五日)。呼吸はシーソー様で、毎分四八ないし六四回、胸部の呼吸音は敏弱であり、シルバーマン陥凹点数一ないし二点であった。皮膚は赤色調で、口周囲、四肢末端にチアノーゼが見られ、顔面、頭部、外陰部にかなりの浮腫(……スリープラス)が存した。モロー反射が見られた。血糖値は七二ミリグラム。

酸素濃度は三〇ないし三五パーセント。臍点滴を五パーセントブドウ糖とした(同月二三日の中止まで同様)。

(七)  同月二〇日(生後六日)。呼吸数は毎分四〇ないし五六回、口周囲、四肢末端にチアノーゼが見られ、皮膚色が不良であるが、四肢運動は活発であった。他に特変なし。野呂医師が回診した。

酸素濃度は三〇ないし三四パーセント。

(八)  同月二一日(生後七日)。呼吸数は毎分四八ないし五六回、低体温が続く。黄疸が最高ピリルビル一デシリットル当り一〇・九ミリグラムを示した。体重九六〇グラム。

酸素濃度は二八ないし三二パーセント。

(九)  同月二二日(生後八日)。呼吸は安らかで、毎分四〇ないし五四回、呼吸音にも異常がないが、依然低体温であった。口周囲、足底部に軽度のチアノーゼが見られるが、皮膚色は良好で、四肢運動も活発であった。

酸素濃度は二八ないし三二パーセント。

(一〇)  同月二三日(生後九日)。呼吸はややシーソー様で、毎分四八ないし六〇回、呼吸音は微弱であり、依然低体温であった。チアノーゼが口、四肢末端に見られ、全身の皮膚色はやや不良であった。

酸素濃度は二九ないし三二パーセント。臍点滴期間が一週間となり、黄疸もややひいたため、同日限りで臍点滴を中止した。

(一一)  同月二四日(生後一〇日)。呼吸数は毎分四八ないし五八回、チアノーゼが口、四肢末端に見られ、啼泣は弱く、四肢運動も不活発であった。

酸素濃度は二八ないし三六パーセント。

(一二)  同月二五日(生後一一日)。呼吸は規則的で、毎分五二ないし六六回、呼吸音は微弱であった。シーソー呼吸があり、シルバーマン陥凹点数一点、チアノーゼが口、四肢末端に見られた。体重九二五グラム。

酸素濃度は二六ないし三三パーセント。

(一三)  同月二六日(生後一二日)。午後六時四五分、ミルク注入後無呼吸発作をおこし、全身チアノーゼとなったが、胸部を刺激し、酸素を増量すると回復した。チアノーゼが口、四肢末端に残り、元気がない。同日の呼吸数は毎分四八ないし五六回。

酸素濃度三一ないし三五パーセント。

(一四)  同月二七日(生後一三日)。呼吸は安らかで、毎分五四ないし六二回、低体温が続き、皮膚色は赤色調で、チアノーゼが若干見られた。全身状態は良好ではあるが、運動は不活発て、泣声も弱々しい。

酸素濃度は二七ないし三八パーセント。

(一五)  同月二八日(生後一四日)。呼吸は安らかで、毎分四八ないし五二回、皮膚色は差程赤くなく、運動は不活発であった。体重九五〇グラム。

酸素濃度二七ないし三一パーセント。

(一六)  同月二九日(生後一五日)。呼吸数毎分五六ないし六〇回、皮慮色はやや良好となったが、口唇および爪甲にチアノーゼが見られた。啼泣がほとんど見られず、モロー反射が活発に見られた。

酸素濃度は二五ないし三一パーセント。

(一七)  同月三〇日(生後一六日)。呼吸は不規則で、毎分四八ないし五〇回、全身色がすぐれず、口唇にチアノーゼが見られるが、四肢運動は活発であった。

酸素濃度は二九ないし三一パーセント。

(一八)  七月一日(生後一七日)。呼吸は毎分四八ないし五六回。黄疸が消失した他は、前日と同様の状態であった。

酸素濃度は二七ないし三五パーセント。

(一九)  七月二日(生後一八日)。呼吸数毎分四六ないし五六回。体重一、〇二〇グラムとなり生下時体重にまで回復した。

伊吹医師は、生下時体重まで回復し、低体温が解消したので、酸素投与を毎分二リットルに減量するように指示し(以後同月二二日まで毎分二リットルを投与した。)、翌三日に眼底検査を受けたい旨眼科へ連絡した。

酸素濃度は二六ないし三〇パーセント。

(二〇)  同月三日(生後一九日)。呼吸は促迫気味で不規則であり、毎分五六ないし六〇回と増加傾向を示し、皮膚色は差程よくないが、四肢運動は比較的活発であった。

酸素濃度は二五ないし三〇パーセント。第一回目の眼底検査を受けた。

(二一)  同月四日(生後二〇日)。呼吸はシーソー様であり、毎分四二ないし五六回、皮膚色は良好であり、四肢運動も活発であった。

酸素濃度二五ないし二九パーセント。

(二二)  同月五日(生後二一日)。呼吸はやや不規則で、毎分四四ないし五二回、四肢運動は、活発であった。体重一、〇七〇グラム。

酸素濃度二三ないし二六パーセント。

(二三)  同月六日(生後二二日)。呼吸は不規則でシーソー様であるが呼吸困難はなく、毎分三六ないし四四回で、皮膚色は良好で、比較的活発な四肢運動が観察された。

酸素濃度二三ないし三一パーセント。

(二四)  同月七日(生後二三日)。呼吸は不規則で毎分四八ないし五二回。特変なし。

酸素濃度二二ないし二九パーセント。

(二五)  同月八日(生後二四日)。呼吸は不規則で、毎分四〇ないし五〇回、特変なし。

酸素濃度は二六ないし二九パーセント。

(二六)  同月九日(生後二五日)。呼吸はシーソー様で、毎分四二ないし五二回、呼吸困難はみられなかった。体重一、一五〇グラム。

酸素濃度は二八ないし三〇パーセント。

(二七)  同月一〇日(生後二六日)。呼吸は不規則で、毎分三六ないし五八回。

酸素濃度は二六ないし三一パーセント。眼底検査を受けた。

(二八)  同月一一日(生後二七日)。呼吸不規則で、毎分四二ないし五六回。

酸素濃度は二六パーセント。

(二九)  同月一二日(生後二八日)。呼吸は不規則ではあるが安らかで、毎分四八ないし五八回。皮膚色は差程よくなく貧血をうかがわせるが、チアノーゼは見られず、四肢運動、啼泣は比較的活発であった。体重一、二四〇グラム。

酸素濃度は二三ないし二七パーセント。

(三〇)  同月一三日(生後二九日)から同月一九日(生後三五日)までは、呼吸は不規則であるが、他に特変は認められなかった。

呼吸数は、同月一三日毎分三二ないし四八回、同一四日毎分四六ないし四八回、同一五日毎分四四ないし五八回、同一六日毎分三四ないし五〇回、同一七日毎分三八ないし五六回、同一八日毎分四四ないし五〇回、同一九日毎分四〇ないし五二回であった。

酸素濃度は、同月一三日二五ないし三〇パーセント、同一四日二四ないし二七パーセント、同一五日二五ないし二六パーセント、同一六日二三ないし二七パーセント、同一七日二四ないし二六パーセント。同一八日二二ないし二三パーセント、同一九日二四ないし三〇パーセントであった。

体重は、同月一六日一、二八五グラム、同一九日一、三二〇グラムであった。

同月一七日(生後三三日)、眼底検査を受け、斎藤医師から本症オーエンスⅠ期の症状が現われた旨の通知を受けた。

同月一八日、伊吹医師は原告末子に面会し、経過は比較的良好と症状説明した。

(三一)  同月二〇日(生後三六日)。呼吸は比較的良好であり、毎分四〇ないし四六回、皮膚色は差程よくないが、チアノーゼは見られず、一般状態は良好で活発な四肢運動が見られた。

酸素濃度は二六ないし二八パーセント。

(三二)  同月二一日(生後三七日)から二三日(生後三九日)は、呼吸がやや不規則であるが、特に変化は見られなかった。

呼吸数は、同月二一日毎分三六ないし五〇回、同二二日毎分四四ないし五六回、同二三日毎分三二ないし四四回であった。

酸素濃度は、同月二一日二五ないし二七パーセント、同二二日二四ないし二八パーセント、同二四日二六ないし三〇パーセントであった。

また同月二三日(生後三九日)体重が一、四四〇グラムとなり、呼吸状態がよくなってきたので酸素投与も毎分一リットルに減量した。

(三三)  同月二四日(生後四〇日)。呼吸困難はみられず、毎分三〇ないし四六回で、皮膚色は差程よくないが、チアノーゼはみられない。血液検査によると、赤血球一立方ミリメートル当り二七〇万、血色素量一デシリットル当り八・七グラムであった。

酸素濃度は二六ないし二九パーセント。眼底検査を受けた。

(三四)  同月二五日(生後四一日)。呼吸は安らかで毎分二八ないし四五回、皮膚色は正常で運動も活発となった。

酸素濃度は二四ないし三二パーセント。

(三五)  同月二六日(生後四二日)。呼吸数毎分三四ないし四〇回。体重が一、四六〇グラム。

伊吹医師は体重が順調に増加し極小未熟児の域を脱し、呼吸数も四〇台に安定し、無呼吸発作も見られないことから、同日午後六時、酸素投与を中止した。

(三六)  同月二六日に酸素投与を中止してからの原告香織の状態は、多呼吸がみられ、同年八月二二日(生後六九日)頃まで呼吸がやや不規則であったが、その後は規則的となり、皮膚色は多少貧血様であるが正常で、全身状態は良好であって、体重も増加し、九月一二日(生後九〇日)に保育器からコットに移し、同原告は同年一〇月三〇日(生後一三八日)退院した。八月二七日以降の状態および治療の経過は次のとおりであった。

(1) 呼吸数は、同月二七日毎分四八ないし六〇回(以下、一分当りの呼吸数を示す。)、同二八日四二ないし五八回、同二九日四八ないし五二回、同三〇日五〇ないし五六回、三一日五二ないし六八回、八月一日四二ないし六八回、同二日四〇ないし四八回、同三日四八ないし五六回、同四日四二ないし五二回、同五日五〇ないし六六回、同六日六〇ないし七二回、同七日四八ないし五八回、同八日五二ないし六〇回、同九日五二ないし六〇回、同一〇日四〇ないし四八回、同一一日三四ないし四四回、同一二日四〇ないし五二回、同一三日四〇ないし四八回、同一四日四〇ないし四四回、同一五日四八ないし六六回、同一六日四二ないし四六回、同一七日四八ないし五六回、同一八日四〇ないし四六回、同一九日四六ないし五二回、同二〇日四四ないし五二回、同二一日四〇ないし七〇回、同二二日四〇ないし五六回、同二三日四〇ないし四二回、同二四日四四ないし五二回、同二五日四〇ないし五二回、同二六日四二回であり、同二六日に測定を中止した。

(2) 体重は、七月三〇日一、五六〇グラム(極小未熟児域を脱する。)、八月二日一、六三〇グラム、同六日一、六六〇グラム、同一四日一、七四〇グラム、同一六日一、八〇〇グラム、同二〇日一、八六〇グラム、同二三日一、九〇〇グラム、同二七日一、九六〇グラム、同三〇日二、〇〇〇グラム、九月三日二、一〇〇グラム、同六日二、一四〇グラム、同一〇日二、二四〇グラム、同一三日二、三四〇グラム、同一七日二、四六〇グテム、同二〇日二、五一〇グラム、同二四日二、五九〇グラム、同二七日二、七〇〇グラム、一〇月一日二、七九〇グラム、同四日二、八五〇グラム、同八日三、〇〇〇グラム、同一一日三、〇九〇グラム、同一五日三、一八〇グラム、同一八日三、二七〇グラム、同二二日三、四〇〇グラム、同二五日三、五三〇グラム、同二九日三、六三〇グラム、同三〇日(退院時)三、六八〇グラムであった。

(3) 血液一般検査の結果は、八月一五日赤血球数二八〇万(一立方ミリメートル当り……以下同じ。)、血色素量八・六グラム(一デシリットル当り……以下同じ。)、白血球数一一、八〇〇(一立方ミリメートル当り……以下同じ。)、同二三日赤血球数三一〇万、血色素量九・七グラム、白血球数六、三五〇、同三一日赤血球数三五二万、血色素量一〇・九グラム、白血球数一三、四五〇、九月一三日赤血球数三八七万、血色素量一一・五グラム、白血球数一〇、二〇〇、一〇月八日赤血球数四〇五万、血色素量一二・二グラム、白血球数八、九五〇、同二二日赤血球数四六二万、血色素量一〇・九グラム、白血球数八、八〇〇、同三〇日(退院時)赤血球数四一六万、血色素量一二・二グラム、白血球数八、二〇〇であった。

(4) 伊吹医師は、七月二一日の血液一般検査の結果、赤血球数、血色素量の数値が低く貧血がみられたため、経過観察の後、同三〇日より造血剤の投与を開始した。造血剤の投与は、七月三〇日、八月四日、同一四日(以上、マスチゲンB12)、同一八日、同二九日、九月三日、一〇月一三日、同二七日(以上、カロマイド)に行った。

(5) 伊吹医師は、原告香織に入院直後から酸素投与を続けてきたため、本症発症を懸念し、既に七月三日から、被告病院眼科医の斎藤医師に連絡をとって、眼底検査を依頼し、逐一検査結果の報告を受けていたが、酸素投与中止後も引き続き眼底検査を依頼し検査結果の報告を受けるとともに、(眼底検査受検の状況は、後記認定のとおりである。)、斎藤医師の指示により、本症の防止ならびに治療のため、同原告に対し、つぎのとおり薬物療法を行った。

伊吹医師は、既に、七月一七日斎藤医師から眼底検査の結果、同原告の眼底には、網膜周辺に混濁が出現し、血管蛇行が見られ、浮腫は認められないが、本症オーエンスⅠ期に移行しつつあるとの報告を受けていたが、七月三一日、更に斎藤医師から眼底周辺部に軽度の浮腫が見られるので、本症に対する薬物療法をするよう指示されたため、野呂医師と検討のうえ、その指示に従い、浮腫収吸をはかるため副腎皮質ホルモン(プレドニン二ミリグラム)、末梢血管の拡大をはかるためビタミンE(ユベラ〇・五ミリグラム)を各投与し、以後、八月七日、同一四日、同一八日、同二八日、九月三日、同一〇日、同一七日、同二一日、同二三日、一〇月一日、同八日、同一三日、同二〇日、同二七日に右各薬剤を投与した。また、経口投薬以上の効果をはかるため、八月九日から副腎皮質ホルモン(リンデロン、デカドロン)の結膜下注射も開始し、以後、同一一日、同一四日、同一六日、同一八日、同二一日、同二三日、同二五日、同三〇日、九月六日、同八日、同一一日、同二一日、同二五日、一〇月八日に行った。

斎藤医師は、八月九日、同原告の左眼眼底に出血を発見し、未熟児センターへ止血剤の投与を依頼したが、伊吹、野呂両医師は、同原告にそれまで出血性傾向がなく、突然の眼底出血で従来経験したことのない症例であるとして、検討した結果、眼底出血、鼻出血等の対策として、同一一日止血剤(トランスアミン三CC)を投与し、同一四日にも再投与した。

(6) 九月四日、斎藤医師から原告香織の両眼の状態が思わしくないとの連絡を受けたため、伊吹医師は、同日原告末子対し、原告香織の内科的な状態はさほど問題ないが、両眼失明の可能性がある旨症状説明をした。

3  眼科の臨床経過(眼底検査結果)

(一)  被告病院では、前示認定のとおり新生児は生後一週間目に眼底検査を受ける体制をとっており、新生児の全身状態が思わしくない場合には、担当小児科医師の判断で受検時期を遅らせることがあったところ、原告香織は生下時体重一、〇〇〇グラムの極小未熟児であったため、伊吹医師は、生後一週間目に受検させず、全身状態が良好となってきた、七月二日(生後一八日)、眼科に眼底検査を依頼した。

(二)  七月三日(生後一九日)、斎藤医師は、本依頼に応じ同原告の第一回目の眼底検査を行った。眼底検査には、京大式倒像検眼鏡を使用し、眼底周辺を詳細に検眼する際には、更に直像検眼鏡を使用した(以後の眼底検査も同様の方法により、各検査結果は、同原告の退院まで検査終了後、小児科へ、通知用紙または口頭で連絡した。)。

同原告の外眼部(目の位置、涙管、涙嚢、眼瞼、眼瞼結膜、瞳孔虹彩、水贔体)はいずれも正常であった。右眼は、硝子動脈遺残がある非常に未熟な状態であり、左眼は硝子体が混濁し、眼底の透見が不能であり、斎藤医師はその旨小児科へ通知した。斎藤医師は右所見にてらし、当時同医師が未熟児の定期的眼底検査をするにあたり採用していた基準に従って、以後毎週一回、同原告の定期的眼底検査を実施することにした。また、斎藤医師は、本症が発症しても自然寛解することが多く、光凝固の実施はオーエンスⅡ期またはⅢ期が適期と考えていた。

(三)  同月一〇日(生後二六日)。右眼は乳頭部は蒼白でソラマメ型を呈し(正常乳頭はオレンジ色で円型を呈する。)、動脈、静脈とも狭細で蛇行しており、網膜に混濁はなく中心窩反射がわずかに認められ、典型的な未熟眼底の所見を示していた。左眼は前回と同様に透見不能であった。斎藤医師は、小児科へ未熟眼底である旨通知した。

(四)  同月一七日(生後三三日)。両眼とも透光体に混濁があり透見困難であったが、混濁の合間を縫って観察した結果、両眼網膜周辺部に混濁が見られ、血管の蛇行が強くなってきていたが、浮腫は認められなかった。斎藤医師は本症オーエンスⅠ期に移行する可能性が強いと判断し、小児科へは、右症状の他、未熟児網膜症Ⅰ期と通知した。

(五)  同月二四日(生後四〇日)。両眼とも血管に怒張蛇行をみとめるが、網膜周辺部に浮腫は見られず、網膜の混濁は消失し、その旨小児科へ通知した。

(六)  同月三一日(生後四七日)。両眼とも硝子体に幾分かの混濁が残っていたが透見可能であり、血管の怒張蛇行があり、網膜周辺部に若干の浮腫が見られた。しかし、無血管帯と血管帯との境界線(デイマーケーションライン)は、認められなかった。斎藤医師は、右所見に照らし、本症のごく初期と考えたが、自然寛解する場合も多いので経過観察することにし、小児科へ右症状を通知し(眼底のスケッチを送った。)、浮腫を吸収し、新生血管を防止するために副腎皮質ホルモン(プレドニン)、網膜の新陳代謝をよくするためビタミンE剤(ユベラ)の投薬を指示した。

(七)  八月四日(生後五一日)。斎藤医師は、本症が急激に進行した症例を経験したことがあったこから、七月三一日に網膜周辺部に浮腫が若干認められた所見に注目し、定期的眼底検査日である同月七日をまたずに検査したが、両眼とも前回と同様の状態で変化は見られなかった。

(八)  同月七日(生後五四日)、右眼は、水贔体には異常はないが、硝子体全体が混濁し、眼底が真白になり透見できなくなった。斎藤医師は、右眼について右混濁のある限り光凝固の実施は不能と判断した。左眼は、乳頭部の境界は鮮明で、オレンジ色よりやや蒼白気味であるが色調も正常であった。血管の怒張蛇行が見られるが前回より程度は軽くなり、網膜周辺部の浮腫、血管新生は認められないが、前回と同様若干の混濁が見られた。斎藤医師は左眼について、オーエンスⅠ期に入った段階と判断した。

同日、斎藤医師は、本院の本症研究スタッフの一員である福地助教授に、同原告の症例を伝え、光凝固施行を依頼することがあるかもしれない旨電話連絡した。

(九)  同月九日(生後五六日)。斎藤医師は、前回に右眼に原因不明の硝子体混濁を生じたため、同日も特に検査した。右眼は前回と同様に透見不能であった。左眼について、硝子体が眼底出血によると思われる血液で赤く混濁し、眼底がほとんど透見不能の状態となった。出血部位を確認しようと、詳細な検査を試みたが、網膜周辺部の静脈が一部透見できたのみであった。斎藤医師は、左眼について、血液による混濁のある限り光凝固の実施は不可能と判断した。斎藤医師は、小児科へ右結果を口頭で通知し、止血剤の投与を指示した。

(一〇)  同月一〇日(生後五七日)。斎藤医師は前回の検査の結果、大きな異常が認められ、また出血が続いているかを確認するため、同日も検査した。合わせて、眼圧測定をしたが、正常値であり、左眼の出血は一応とまったと判断された。右眼は前回と同様に透見不能であり、左眼は硝子体中に血液が入り混濁が強く、ほとんど透見不能であり、網膜のほぼ中央に血液の凝固が認められる外は、網膜周辺部の静脈がかろうじて判断できる程度であった。

(一一)  同月一四日(生後六一日)。右眼は依然透見不能であった。左眼も硝子体が出血による混濁のため透見不能であった。斎藤医師は、小児科へ止血剤の投薬を指示した。

(一二)  同月二一日(生後六八日)。右眼は依然透見不能であったが、左眼はようやく出血が吸収されはじめて混濁が薄らぎ、いまだ充分とはいえないまでも乳頭部、網膜血管の透見が可能になってきた。

(一三)  同月二三日(生後七〇日)。右眼は透見不能。左眼は、依然出血の影響で透見が困難であったが、血塊が動く合間を縫って観察したところ、破れたと思われる血管が透見された。乳頭より耳側部に牽引乳頭と思われる所見がうかがわれるが、硝子体の混濁のため十分確認できなかった。また、網膜周辺部は血液がたまっており、変化を観察することができなかった。

(一四)  同月二五日(生後七二日)。右眼は透見不能。左眼は血液がやや吸収されたが特別の変化はなかった。

(一五)  同月二八日(生後七五日)。右眼は透見不能。左眼は血液のため耳側周辺部は透見不能であったが、鼻側は前回に比べやや鮮明に透見でき、動脈の蛇行が著明で、静脈の蛇行は軽度であった。

(一六)  九月四日(生後八二日)。右眼は透見不能。左眼の黄斑部周辺の血液が吸収され、視神経乳頭部から黄斑部にかけて透見可能となったが、牽引乳頭、索状剥離が著明であり、鼻側に軽度の浮腫が見られたオーエンス瘢痕三度と考えられた。しかし、黄斑部付近の所見がまだ十分に確認できなかったが、他の所見より黄斑部まで索状網膜剥離が進行していると推測され、斎藤医師は、光凝固はもはや実施不可能かつ無効と判断し、同原告の失明はほぼ確実になったとして、その旨、伊吹医師に連絡した。但し、斎藤医師は、左眼黄斑部の所見が不明である以上、失明の断定はしなかった。

(一七)  同月一〇日(生後八八日)。同一八日(生後九六日)。両眼の状態に変化がなかった。

(一八)  同月二五日(生後一〇三日)。右眼は透見不能。左眼に強い混濁が見られた。

(一九)  一〇月二日(生後一一〇日)。右眼は透見不能。左眼は強い混濁が見られた。

副腎皮質ホルモン(デカドロン)の結膜下注射の中止を指示した。

(二〇)  同月九日(生後一一七日)。右眼は透見不能。左眼の眼圧は正常であった。

(二一)  同月一五日(生後一二三日)。右眼は透見不能。左眼は、広範囲に軽度の浮腫が見られ、瘢痕部も生じており、オーエンスⅤ期と判断された。視力回復の可能性はないが、明暗に対して反応するので薬物投与(ビタミンE剤 ヨーレチン)をした。

(二二)  同月二三日(生後一三〇日)。同三〇日(生後一三八日)。右眼は透見不能、やや眼球に萎縮を呈してきた。左眼の浮腫が消失し、網膜剥離の懸念がなくなった。周辺部を十分に透見できないが、一部瘢痕化しているものの、全体には及んでいなかった。

(二三)  一一月八日(生後一四七日)。斎藤医師は、未熟児網膜症後遺症と診断した。

(二四)  一一月一五日、同二九日、一二月二〇日、昭和四九年一月一一日。両眼に特別の変化がなかった。(但し、一一月二九日より左眼眼底中心部がはっきり見えるようになった。)

(二五)  一月二四日。右眼は硝子体線維増殖のため透見不能であった。左眼は、周辺部より線維増殖が認められ、黄斑部付近の網膜は非常に反射が暗く、視神経の萎縮が認められた。

(二六)  四月二〇日、左眼に水贔体の亜脱臼が認められた。

七  被告の責任

以上の事実によると、医科大学附属病院である被告病院にあっては、同一分野の医師間のみならず各専門分野の医師間の密接な協力のもとに各専門分野で是認される高度の水準に従った医療行為をすべきであり、具体的には、当然前記四3に判示した医療水準に従った医療行為をしなければならず、以下においては、この見地から原告主張の各注意義務違反があるといえるかについて検討する。

1  酸素管理義務について

(一)  原告らは、未熟児に酸素を投与するにあたっては、医学的に適応のある場合に限り、酸素流量計と濃度計により保育器内の酸素濃度を頻回にチェックするとともに、PaO2を頻回に検査して酸素管理をなすべき義務があるのに、PaO2を測定せず、安易に長期間にわたって酸素投与した過失がある旨主張する。

前認定の事実(前記四3参照)によると、本件当時すでに未熟児の酸素療法と本症との関連さらには本症の予防のためには酸素投与の管理を徹底することの重要性が医学上の常識となっていたといえるから、担当医師である伊吹医師には、原告香織を本症の被害から守るために、適切な酸素管理をなすべき注意義務があったことが明らかである。

しかしまた、前認定の事実によると、未熟児、特に極小未熟児(前認定のとおり、原告香織は極小未熟児であった。)の場合には、投与すべき酸素を制限すれば、特発性呼吸障害症候群による死亡あるいは無酸素症、低酸素症による脳神経障害にもとづく脳性麻痺等の危険性があるため、これらの危険性を除去するため、いいかえるとまず生命の維持のため、量、濃度、期間等について配慮のうえ、必要な酸素を投与せざるをえないこともまた明らかというべきである。

ところで、原告香織の出生当時における未熟児に対する酸素管理、すなわち、未熟児の生命、脳に危険を与えず、かつ本症を予防するための酸素管理の一般的水準は、前記四3(3)に認定したとおりである。また、原告香織の産科、小児科の臨床経過は前記六2に認定したとおりである。

そこでまず、生後一五日までの酸素管理の当否についてみるに、右臨床経過、鑑定人大浦敏明の鑑定結果(以下「大浦鑑定」という)、証人大浦敏明の証言によると、原告香織は極小未熟児であったこと、出生から翌日にかけての状態は重篤であり、その後一応生命の危機を脱したといえるものの、生後一五日までは呼吸数が毎分六〇を上下し、体温も低体温がつづき、とくに生後一二日には無吸収発作があったこと、この間の酸素供与量は生後一日が毎分二ないし四リットル、生後二日が毎分四ないし五リットル、その後が毎分四リットルであって、酸素濃度は四〇パーセント以下に保たれていたことが認められるのであって、大浦鑑定、右証人大浦の供述に照らすと、右酸素管理は必要適切なものであったということができる。

次に、生後一六日から酸素投与が中止された生後四二日までの酸素管理の当否についてみるに、右臨床経過に照らすと、その間の酸素投与量は、生後一六日から一八日は毎分四リットル、生後一八日から三八日までは毎分二リットル、生後三九日からは毎分一リットルであり、酸素濃度は右の全期間を通じておおむね二〇ないし三〇パーセントであったことが認められる。そして、右期間中の原告香織の状態は、右臨床経過によると、格別チアノーゼ症状もなく、全身状態は次第に改善されてきたといえるのであるが、呼吸数はそれ以前のように六〇台に至らないまでも、ほぼ毎分五〇回台を示していて安定していたわけではなく、呼吸状態も生後二五日ごろまでシーソー様状態が見られ、生後三八日まではやや不規則であったことが認められる。そして、大浦鑑定、証人大浦の証言をも考えあわせると、酸素濃度三〇パーセントという状態は、当時はもとよりとしてその後の研究報告に照らしてみても、本症に対する酸素の有害作用という点では低い濃度とされていることが認められるから、チアノーゼや低体温、黄疸等の症状が消失したのちにおいてもなお不安定な呼吸状態を呈し、いまだ極小未熟児であった原告香織に対し、酸素供給の低減の程度および停止の時期をいかに決定するかは、右措置の採否による危険性との比較衡量において判断されるべきものであって、担当医師の裁量の範囲内というべきものと考えられる。したがって、低酸素症による脳機能障害の発生を予防するために酸素投与を打切らずに続けたことをもって、ただちにその治療行為に落度があったというべきではない。

しかも、前記臨床経過によると、伊吹医師は、本症の発症のおそれも考慮して、原告香織の全身状態や体重の増加に応じて、生後一八日には酸素流量を毎分二リットルに減量し、濃度も以後ほぼ三〇パーセント以下の低濃度に保ち、生後三九日には体重が一四四〇グラムとなり極小未熟児状態を脱する見込も生じたため酸素量を毎分一リットルに減量し、生後四二日には呼吸数も安定したため酸素の投与を打切っているのであって、漫然と安易に酸素投与を行ってきたわけではなく、原告香織の全身状態と体重の増加を充分考慮して酸素濃度、流量、投与停止を決めており、投与打切後も生後六八日頃まで二週間以上も原告香織の呼吸はやや不規則で呼吸数が毎分六〇回以上の多呼吸状態も少なからず生じていることからすると、原告香織としてはいまだ酸素投与を必要とする状態であったと推認しうることなどを総合すると、伊吹医師の行ったこの期間の酸素投与は、その濃度、量、期間の点のいずれについても過失があったということはできない。

もっとも、前記臨床経過によると、原告香織についての血液ガス分析は、生後一日、二日、四日に行われただけで、それ以後行われていないことが認められる。したがって、もし生後五日以後に血液ガス分析を行っていれば、その時のPaO2値のいかんによってはより早期の酸素供与打切等が可能であったといえないこともない。しかしながら、《証拠省略》によると、

(1) その当時のPaO2分析技術では少くとも〇・二CCの動脈血が必要であり、正確を期するには〇・五CC程度が必要であった。

(2) 採血部位は橈骨動脈(親指のつけ根付近にある。)が多く用いられたが、血管が極めて細いため採血には高度の技術を要するとともに、採血後は動脈外に血腫ができ、再度の採血がやりにくい。

(3) 臍動脈にカテーテルを挿入し下行大動脈からの採血も多く行われていたが、臍動脈が収縮しているために不成功に終ることもあり、カテーテルの長時間の留置は血栓の形成や栓塞、出血、感染等の危険を伴うためせいぜい五日から一週間で抜去しなければならないとされている。

(4) 股動脈(足のつけ根付近にある。)からの採血も行われていたが、この場合はその部位が汚物で汚れるため感染の危険がある。

(5) 被告病院の場合にはPaO2の分析機能は未熟児センターにはなく中央検査室に置かれており、しかもその検査は検査技師の勤務時間内に限られていて、当時の被告病院の検査技術では一CCの動脈血が要求された。そして、橈骨動脈からの採血は困難でしかも血管をつぶしてしまうため、原告香織については股動脈からの採血が行われていたところ、生後四日の採血後に鼠径部からの出血が五〇分間も続いた。体重一〇〇〇グラムの児の全血液量はせいぜい一〇〇CC程度であるため、一CCの採血量だけでも児に対する影響が極めて大きいうえに、出血が続けばさらに多くの血液が失われることになり、股動脈からの採血はその部位が汚染しやすく感染症のおそれもあったので、その後の採血が中止された。

以上の事実が認められる。

右認定の事実によると、採血の技術的制約に加えて、その出血、感染等の危険性と体重一〇〇〇グラム以下の極小未熟児であった原告香織の状態とを考慮すれば、生後五日以後はPaO2測定を行わず、原告香織の全身状態の所見(呼吸状態、呼吸数、体重の増加等)と保育器内の酸素濃度により酸素管理を行うことを決めた伊吹医師の判断も、その生命の維持を最優先に考えて極小未熟児の療養を担当する小児科医として無理からぬものがあるというべきである。のみならず、前認定の本件後の研究成果(前記五4参照)および証人大浦の供述によると、その後開発された経皮的血中酸素分圧測定器によりPaO2を測定してみた結果、未熟児の状態により血中酸素濃度は、短時間(例えば一分間)のうちに大きく変動することが明らかになったため、仮え一日に一回血液を採取してPaO2を測定してみてもそれにより対象児の状態が正確に把握できるものではないことが判明したことが認められるから、生後五日以後はPaO2の測定を行わずに酸素の管理を行うことと決めた右医師の判断は、この点からしても是認できるものと考えられる。

なお、鑑定人中田成慶、同江林利弥の共同鑑定の結果(以下「中田・江林鑑定」という。)によると、生後一日から生後四日までの四日間および生後一二日の無呼吸発作後数時間の酸素投与は妥当であるが、生後四日以後の酸素投与はPaO2測定なしに行われた危険な合理的理由のない酸素投与であり、PaO2の測定がなされていればもっと早く投与が中止されたはずであるとして、酸素管理に過失があったとするもののようである。

しかし右鑑定は、PaO2測定をしながら酸素投与をなすことが当時の医学的常識であったことを前提としているが、この問題に関しては、被告病院におけるPaO2測定の技術的困難さや、原告香織に対するPaO2のための採血による危険性等をも考慮しなければならないことは、前叙のとおりであって、右鑑定の結果にはにわかに左袒しがたい。

(二)  次に、原告らは酸素投与にあたっては頻回に眼底検査を実施して本症の早期発見に努め、発見した場合には眼科医と小児科医は協力して適切な酸素管理をなすべき注意義務があるのに、伊吹医師は合理的理由がないのに生後一九日まで眼底検査を遅延させたうえ、斎藤医師も眼底検査の検査結果を通知用紙に簡単に記入したのみであり、双方の協力体制がずさんであり、検査結果が酸素管理に生かされなかった旨主張する。

前認定のとおり(六1参照)、被告病院においては未熟児については生後一週間目には斎藤医師の眼底検査を受ける建前になっていたが、児の全身状態の悪い時には担当小児科医の判断により第一回の眼底検査時期を遅らせることもあったのであって、このように検査時期を未熟児の状態によって変えることは合理的なものといえ、その判断は担当小児科医の裁量に属するというべきである。

そして、前述のような原告香織の全身状態によると、伊吹医師が眼底検査時期を遅らせたことは相当の理由があり、全身状態の改善がみられたのち直ちに眼科に連絡して眼底検査を行っており、その時期も生後一九日目であり、《証拠省略》によると、昭和五〇年に発表された前記厚生省研究報告においても眼底検査は満第三週ごろに開始することになっていることが認められるから、本件において生後一九日目に眼底検査が行われたということは時期的にみても問題がないということができる。

したがって、眼底検査の時期の遅延には合理性はないとする原告らの主張は理由がない。

また、小児科と眼科との連携に関しては、前認定のように、眼底検査の通知用紙あるいは口頭での連絡により随時所見の交換が行われており、担当小児科医は眼科医の所見も考慮して治療方針を決めて治療していることが認められ、伊吹医師も斎藤医師の作成した通知用紙の記載内容あるいは同医師の指示により薬物療法も行っていたのであって、その間の連携がずさんであったとも認められない。

原告らは斎藤医師の眼底検査の診断内容に従って酸素管理をなすべきであった旨主張する。

前認定の臨床経過(前記六2、3参照)によると、七月三日(生後一九日)、同月一〇日(生後二六日)、同月一七日(生後三三日)、同月二四日(生後四〇日)にそれぞれされた眼底検査の結果は、斎藤医師から小児科に通知されているが、斎藤医師からは診断所見が通知されたのみで、具体的には何らの指示もされていないし、またその診断所見の内容も直ちに酸素量の減少や投与停止に結びついていないこと、とくに同月一七日(生後三三日)の検査結果通知では、本症オーエンスⅠ期が現われた旨の通知がされているが、そのことが格別酸素量の減少等に結びついていないことが認められる。しかしながら、なお前認定の臨床経過(前記六2参照)、証人伊吹の供述によると、伊吹医師は、右診断所見を参考にしながらも、当時の原告香織の全身状態等から判断して酸素量を調節していたのであって、右オーエンスⅠ期との通知を受けた際も、当時の酸素量は毎分二リットルで、酸素濃度を三〇パーセント以下に押えていたことでもあるので、原告香織の全身状態からして直ちに酸素投与を打切るなどの処置に及ばなかったことが認められる。のちに判示するとおり(七5参照)、本件当時の医療水準のもとでは、本症に順次段階的にゆっくり変化する型のほかに急激に変化するⅡ型あるいはその混合型がある旨の分類整理が確立していなかったし、また、オーエンスⅠ期が現われれば直ちに酸素投与を中止すべきであるとの治療方針が確立していたとの証拠もないから、結局これらの点も含めて酸素管理をいかにすべきは、すでに判示したように、担当医師の裁量に委ねられているものというほかなく、かつ、伊吹医師のとった酸素管理の方法は、当時の医療水準に照らしてみても不当、不合理なところはないということができるから、この点に関する原告の主張も理由がない。

2  低体温改善義務について

原告らは、未熟児が低体温である場合は低体温改善のための手段を講ずべき注意義務があるのに、これを怠り、フード反射板を使用したのみで酸素を投与すれば体温が上ると考え漫然と酸素を投与したと主張する。

未熟児の体温が低い場合には極めて重大な悪影響を与えてその死亡率を増大させることは容易に考えられ、その危険性を除去するためには未熟児の医療を担当する医師には低体温を改善すべき注意義務があると解せられるけれども、《証拠省略》によると、被告病院では原告香織に対して、保護フードおよび反射盤を使用して副射熱の発散を防止して、その体温の低下の防止に努めたこと、その結果徐々に体温が上昇して生後一六日には低体温状態を脱したことが認められ、また低体温のゆえに漫然と酸素を投与していたのでないことは前示のとおりであり、証人大浦の供述をも対比してみると、伊吹医師が他に体温上昇の措置を採らなかったことをもって同医師の過失ということはできない。これに反する中田・江林鑑定は採用できない。

3  全身管理義務について

原告らは、原告香織が出生後未熟児センターに収容されるまで五時間を要していて、産科と小児科の連携がずさんで、未熟児を全身的に管理哺育する義務に違反している旨主張する。

すでに判示したとおり(前記三参照)、被告病院のような医科大学附属病院にあっては、各専門分野の医師間の密接な連絡協力体制のもとに医療行為がされる必要があり、そのためには、緊急を要する治療が迅速に行われるよう、各専門分野間の患者の輸送、受入態勢が整っていることが望まれることは事実である。しかし、一方では整えるべき施設にも自ら限度があるというべきで、いかに大学附属病院といえども常に理想的な状態を保つことが可能であるということはできないのである。本件についてみるに、前認定のように(前記六2参照)、原告香織が未熟児センターに収容されるまで五時間を経過していることは明らかであるが、香織の出生したのは六月一五日の午前九時であり、《証拠省略》によると、右出生時は被告病院の外来診療の時間帯であって、小児科も混雑しており、原告香織を未熟児センターに収容する態勢を整えるのに時間を要したこと、原告香織の出生時の状態はさほどよいものではなかったけれども、特に異常が認められたわけではなく、緊急に未熟児センターに収容せねば生命に影響を及ぼすほどの状態とまではいえなかったこと、一方岡野医師は原告香織が未熟児センターに収容されるまで産科の新生児室にある保育器に収容し、毎分一リットルの酸素を投与していたことが認められる。

そうすると、原告香織の未熟児センターへの収容が漫然と理由なく遅延させられたということはできず、その間も放置されていたわけではなく、相当程度の量、濃度の酸素投与が行われていたのであるから、原告香織に対する被告病院の未熟児哺育体制にはいまだ非難に値する落度があったとまではいうことができないと解するべきである。これに反する中田・江林鑑定はにわかに採用できず、原告らのこの点に関する主張も採用できない。

4  定期的眼底検査義務について

原告らは、本症の早期発見、早期治療のため、担当医師は生後一週間目位から週一回数か月にわたって定期的眼底検査を行わなければならないのに、被告病院ではこの義務に違反したと主張する。

そこで按ずるに、この点についての本件当時の医療水準は、前記四3(6)に認定したとおりであり、原告香織の眼科の臨床結果は前記六3に認定したとおりである。そして、これによれば、八月一〇日(生後五七日)までの眼底検査については、医療水準を充足するものということができる。すなわち、前記臨床経過によれば、七月三一日(生後四七日)までは眼底の活動に変化がみられなかったものであるから、眼底検査は週一回の頻度で足り、活動の徴候が見られた右以降は八月四日(生後五一日)、同月七日(生後五四日)と週二回の割合で検査を行ない、活動に変化が起きた同月七日以降は九日(生後五六日)、一〇日(生後五七日)と間隔を短くして検査を行なっていることが認められるからである。

ところで、右のような本症罹症後にもかかわらず、同月一〇日以降は、同月一四日(生後六一日)および二一日(生後六八日)、二三日(生後七〇日)と間隔が開いていて、右の基準に達しているとはいえないから、これが右検査義務違反になるかについて検討するに、《証拠省略》および前記の事実を総合すると、

(1)  右眼については、八月七日に硝子体全体が混濁して透見が不能となり、以後この透見不能状態が続いたまま変化することがなかったこと、

(2)  左眼については、同月九日眼底出血による混濁のため透見不能となり、同月一〇日一応出血が停止したと判断されたものの、依然透見は不能であって、この状態は同月一四日も同様であり、同月二一日にいたって出血が吸収されはじめて混濁が薄らぎ、充分な状態ではないが、乳頭部、網膜血管の透見が可能になってきたこと、

(3)  右眼についての同月七日以後の状態のもとでは右眼について光凝固手術を行うことは不可能であったこと、

(4)  左眼についての同月八日から一四日まで、および同月二一日の眼圧透視状態では光凝固手術の実施は不可能であったこと、

がそれぞれ認められ、これに反する証拠はない。

そして、さらに前掲証拠によれば、右判示の八月九日から同月一四日までの左眼の眼底出血による混濁移行の程度からすると、同月一四日以降二一日までの間には症状は次第に軽快する方向に向っていたものであり、右期間中の混濁の程度は同月二一日のそれより重かったものと認められる。したがって、右期間中もまた、左眼に対して光凝固の手術を行うことは不可能であったといわざるをえない。

前記臨床経過のとおり、原告香織に対する酸素供給は、七月二六日をもって中止されていたのであるから、それ以後の眼底検査は、専ら光凝固手術の適期を判定するためになされていたものと認むべきところ、八月九日以降、同月二一日までの間は光凝固手術が不可能であったから、その適期を判定するために眼底検査を行うことは意味がなかったものといわざるをえない。そうだとすると、八月一〇日以降の検査回数が少ないことをもって被告または担当医師になんらかの義務違反があったということはできない。

また右に判示した事実によれば、八月一四日から同月二一日までの間に光凝固手術をなすべき適期があったことを前提として、被告または担当医師に義務違反があるとする原告らの主張は、その前提事実が認められないことになるから採用できないものといわねばならない。

5  光(冷凍)凝固法施術義務(転医義務)について

原告らは被告および担当医師は遅くとも、原告香織の眼が著しく悪化した八月七日に同原告を被告本院へ移して光凝固に備えるべきであったと主張する。

前記臨床経過、《証拠省略》によると、八月七日右眼が原因不明の混濁により透見できなくなり、左眼は、血管怒張蛇行は見られるが、前回よりは程度が軽くなり、また、網膜周辺部の浮腫、血管の新生は認められないが、若干の混濁が認められたとの所見のもとに、斎藤医師は、オーエンスⅠ期と判定し、本院の福地助教授に症例を伝え、光凝固手術を依頼することがあるかも知れない旨伝えたこと、しかし、左眼は未だ非常に軽い段階であって厳密な基準によれば網膜症であると言えるか否か難しく、オーエンスⅠ期以前かようやくこれに入ったかという段階と判断されたこと、斎藤医師は、右の状態ではいまだ光凝固手術を行うべき段階に達しておらず、右手術はオーエンスⅡ期ないしⅢ期に入りなお症状に進行徴候が見られる時、すなわち血管の増殖変化が網膜から硝子体に及んでいくときとの見解をもっていたので、当面経過観察で足りると判断したこと、そして、その二日後の同月九日に斎藤医師が検査を行ったところ、左眼については硝子体内眼底出血があり赤く混濁して透見不能であり、網膜周辺部の一部のみが透見できたという急激な変化が見られたこと、斎藤医師は、同月九日以降同月二一日までは、出血のため光凝固手術が不可能と判断し、原告香織を転医させないままでいたところ、同月二三日にいたり症状は瘢痕期にいたったことが認められる。しかして、前認定の医療水準、《証拠省略》に照らすと、同月七日現在においては左眼に対して光凝固手術を行う段階に達しておらないとして、右手術の必要があるとは認めなかった斎藤医師の判断は当時の医療水準のもとにおいてもむしろ当然の判断ということができるし、また同月九日以降は右眼および左眼のいずれについても光凝固手術を行うことができないとした斎藤医師の判断が正鵠を射るものといえることもまた先きに認定したところから明らかといえる。

しかしながら、八月七日あるいはそれ以前に左眼についての急激な変化が予測できたとすれば、光凝固手術施設をもたない被告病院としては、あらかじめこの施設をもつところへ原告香織を転送し、施術の機会を失わせないようにする義務があるというべきであるから、八月七日あるいはそれ以前において、同月九日に認められた左眼についての急激な変化を予測できたかについて検討するに、前認定の本症の臨床経過(前記二参照)に照らすと、いわゆるⅠ型であれば、八月七日に見られた1期の血管新生期から2期の境界線形成期へ、3期の硝子体内滲出と増殖期へ、4期の網膜剥離へと順次緩かに移行するものである。しかし、八月七日の状態からいきなり九日状態へ転化した急激な変化からすると、原告香織の症状がⅠ型として分類されるべきものに該当しないことは明らかである。したがって、本症はいわゆるⅡ型もしくはこれに準ずる急激な変化を示す混合型とみるほかないのであって、この点は、《証拠省略》によっても認められるところである。そして、《証拠省略》によると、前記の一般医療水準において判示したとおり、本症に順次段階的に比較的ゆっくりと変化するⅠ型の外に、急激に変化する型のものが存在することはすでに昭和四六年頃から知られていたことが認められるが、それがⅠ型と並んだⅡ型あるいはその混合型とし整理され、これに対する治療の適期等が解明されだしたのは、本件以降現在までの本症に関する研究の発展についての項(前記五参照)で判示したとおり昭和四九年度以後であって、本件以後のことに属するのである。したがって、本件当時においては、Ⅱ型および混合型については、これに対する診断および治療適期の判定はいまだ医療水準に達していなかったものと認むべきである。そうであるから、当時の医療水準のもとにおいては、八月七日ないしはそれ以前の時点においてその直後の急激な変化を予測することはできなかったといわざるをえないのであって、斎藤医師が八月七日ないしはそれ以前の時点で同月九日に認められた急激な変化を予測せず、当時直ちに原告香織を転医しなかった被告あるいは斎藤医師らに義務違反があったということはできない。

よって、この点に関する原告らの主張は理由がなく採用することができない。

6  説明義務違反について

原告らは、本件において担当医師は、原告香織の両親に対して本症発生の危険のあること、本症の内容、予防方法早期治療の方法を伝えるべきであったのに、これをしていないと主張する。前記臨床経過の項で判示したとおり(前記六参照)、伊吹医師は原告豊實に対して原告香織が未熟児であることから、生命の危険が高いこと、生命が助かった場合においても脳性麻痺による精神障害や酸素投与が一因となって未熟児網膜症による失明等の障害が残ることのあることを説明しているし、斎藤医師は、原告香織の右眼の状態が悪いことおよび左眼についても本症に罹症したことを説明しているところである。そして、本件のような急激に進行する型であることないしその転医および施術の時期については、当時の一般的医療水準とはいまだなっていなかったものであるから、これを前提とする説明義務もまたないものといわざるをえない。そうすると、被告および担当医師には説明義務違反があるとはいえず、これがあるとの原告らの主張もまた採用できない。

八  以上検討したところによれば、被告およびその履行補助者である伊吹、野呂、斎藤の各医師に、原告ら主張の請求原因五2(一)ないし(六)の注意義務を怠った債務不履行があったということはできず、また同人らが不法行為に及んだということもできない。

そうすると、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 川口冨男 裁判官前川豪志、同中村隆次は、転任のため署名押印できない。裁判長裁判官 川口冨男)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例